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マタニティリープマガジン vol.1 妊娠中も新幹線通勤、子供の入退院を乗り越えながら、「働く場所は自分で選ぶ」

みなさん、こんにちは。「マタニティを飛躍の機会に」。マタニティリープです。先週からスタートしたマタニティリープマガジン。今日からメインコンテンツとしてマタニティ期、子育て期の経験とご自身のリープについて語っていただいたインタビュー記事を連載していきます。読んでいただいて、共感したり、元気になったり、癒されたりと、みなさんの力となる記事になれたら嬉しく思います。

マタニティリープインタビュー

〜中尾慶子(仮名)さんのマタニティリープジャーニー〜(第一回/全三回)

*太字はインタビュアー
インタビューをする前に、お子さんの年齢、慶子さんがどんなところで生まれ育ったか、ご両親のこと、兄弟はどんな感じだったかなど、聞かせてもらってもいいですか?

子供は一人、息子で現在27才。子育ては終了して、家を出て独立しています。
私は東京生まれ東京育ち。父親が自営業で母は専業主婦、父方の祖父母と共に暮らす、三世代同居の家に生まれ育ちました。1歳半離れた兄が一人いました。
子供の頃は、明治生まれの祖母や兄とよく一緒に時間を過ごしたことを覚えています。

早速ですが、慶子さんの妊娠、出産について教えてください。

27歳で結婚、29歳で出産しました。結婚当初は岡山と東京での別居結婚していて、その後広島への転勤が決まり、岡山で一緒に暮らし始めました。同時に広島への新幹線通勤が始まりました。よし、これから働くぞと思っていた矢先、妊娠がわかりました。

子供ができてどう思いましたか?

私自身、子供については、欲しいとか、計画的な考えが以前からなく、妊娠に対する驚きと不思議な感覚がありました。

ご両親とは?

自身の両親は東京に住んでいて、夫の両親は岡山に住んでいたのですが、当時あまり頻繁には交流がありませんでした。

旦那さんは子供ができたことをどう思っていたのですか?

夫は妊娠を喜んでいました。
子供の誕生は自然のできごとだと受け入れていたようでした。

その後仕事は続けたのですか?

幸いなことに、つわりはそれほど酷くなかったので、これまでの生活や仕事を続けました。広島への通勤時間は約1時間半かかったので、岡山駅に近くに家を借りることにしました。そこはオフィス街で、地域との交流の無さに寂しさを感じつつも、そのまま仕事を続けるためには仕方ないと思っていました。

仕事では、東京への出張も日常茶飯事だったので、妊娠三ヶ月の頃も飛行機で東京に出張をしたりしていました。定期的な検診で医師から新幹線通勤の継続について問われましたが、大丈夫だろうとその後も続けていました。妊婦向けの雑誌を読んだりして、運動するとか体を動かすと良いとあったので、駅から会社まで歩いてみたりしていました。


周りには、先輩ママとか妊娠している人などはいなかった?


職場や周りに妊娠出産中の女性はいなかったですね。周りから助言を受けるような環境ではありませんでした。

その後どうなったのですか?
24週頃、切迫早産の兆候が現れました。街中で急にお腹が痛くなり、病院に向かうと、そのまま入院となりました。ベッドに寝たきりで点滴を受けるという状態になり、しばらくすると、NICUのある病院に救急車で移送されることになりました。

不安になり、「もしも今、生まれてきてしまったら?」と医師に聞いたことを覚えています。その時、「赤ちゃんの生命力次第だ」と言われました。24週で生まれてきて医師になった子もいれば、もっと長くお腹の中にいても、亡くなってしまう子もいると聞かされました。それを聞いてなんとも言えない気持ちになりました。

救急車で移送されたあとは、緊急度の高い妊婦が入る病室にいたので、他の妊婦さんたちの様々な状況を耳にすることもありました。何事もなく赤ちゃんを出産することは当たり前のことではないのだと実感しました。生と死、喜びと悲しみが病室の中で起きていました。寝たきりのベットで天井を見ながら、ただ受け入れるしかない感覚。生命力があれば、赤ちゃんは生まれてくる。この時、現実を受け入れ、諦めとも達観ともつかない感情を経験しました。

33週0日の時、私の体が点滴の副作用に耐えられなくなり母体の状態が悪化してしまい、心の準備もないままに、緊急帝王切開手術で出産することになりました。お腹から出た赤ちゃんをみて、ホッとした気持ち、喜びを今でも覚えています。

ここでの経験は、これまで、なんでも頑張れば実現できる、自分で全てコントロールできると思っていた信念を打ち砕きました。この経験はその後にもつながってるな、と思います。

生まれた後はどうでしたか?
楽になりました。点滴の副作用(心臓の脈拍がいつも高く、常にマラソンをしているかのような)がなくなって、精神的にハイになりました。病院内を歩き回りたい気持ちが湧きましたが、起きるとめまいがすることもあり、リハビリと共に日々を過ごしました。

しかし、その後気分が落ち込みました。赤ちゃんが小さかったからです。保育器の中にいる姿を見て驚きました。周りの赤ちゃんとは異なる姿にショックを受けました。責任を感じる思いが湧き、自分を責める感情や、「大丈夫なのか?」「育ってくれるのか?」という不安も覚えました。

1人で搾乳して母乳をあげる準備をしました。生まれたばかりの赤ちゃんは、母乳を飲める状態ではありませんでしたが、母乳を飲めるようになった時のためにです。小さく生まれた赤ちゃんは母乳で育てることがより大事だと看護師から聞きました。赤ちゃんの退院まで二ヶ月間、母乳を搾って届ける日々を送りました。私自身は入院中寝たきりだったため、退院後はバスのステップさえ上ることが大変な状態でした。

出産直後に保育器に入ったため、赤ちゃんにあまり触れることができず、不安になる日々でしたが、病院の看護師さんは愛情をこめて日誌を書き、それを手渡してくれました。足形のスタンプなどもありました。看護師さんたちの優しさや愛情深い姿勢、明るさに支えられ、助けられました。

今思えば、人から助けを受けることを学んだのだと思います。入院中はトイレさえも介助してもらうことが当たり前に行われ、その思いやりある看護師さんたちの姿勢が心に残っています。

子供が家に戻ってからは、一生懸命でした。息をしているのかな?おっぱいを飲ませては体重計に乗せる、そんな日々でした。冬に生まれたので、外は寒く、春になるまで家にこもっていました。私の入院をきっかけに、義理のお母さんがよく家に来てくれるようになり、お互いの行き来がしやすくなりました。その後、復職した後も、子供が病気になった時など、子供を預けたり、家に来て看病をしてくれたりと、義父母がサポートをしてくれました。

それから次第に孤独感を感じるようになりました。オフィス街に住んでいたため、公園デビューなどもなく、家族連れとは滅多に会わない場所でした。その頃でしたね、お母さんたちと交換日記をしていたのは。インターネットなど普及していない時代だったので、7、8人でノートを郵送して回す形式でした。ちょうどその頃始まっていたパソコン通信で、Niftyのムギ畑*1をよく見ていたのもこの頃だったと思います。

(*1:ムギ畑は、ワーキングマザーの支え合いを目的として、平成9年秋に会員制掲示板として開設されたインターネット・ コミュニティです。)

次週第二回:復職後に続きます。

マタニティリープ情報

マタニティリープでは、妊娠出産後の可能性や選択肢が拡がり、リープ(飛躍)につながるイベントやワークショップを開催しています。
直近では、9月19日に仕事にまつわるワークショップを開催します。先週は三回シリーズの一回目「ケーススタディ  〜こんなとき、あなただったらどうする?〜」を開催しました。二回目、三回目ともに単発でもご参加いただけますので、ご興味のある方、ぜひご参加ください。

 第二回 2023年9月19日(火)11:30〜13:00
 ワークショップ 
  「〜マタニティを通してどんな自分が生まれたがってる?〜」 
出産前まで自分が大事にしてきた価値観や自分らしさが、今どんなふうに変化しつつあるのか、妊娠出産を経た自分自身、仕事に復帰する際に感じる罪悪感などについても対話をしながら、進めていきます。
お申し込みはこちらです。

編集
マタニティリープ合同会社


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