そんなに忙しいことなんて、ある?〜下田市・南伊豆町の場合〜
ときは12月下旬。クリスマスシーズン真っ只中。
感染症の拡大傾向が落ち着いてきたタイミングでもあり、人は街にあふれていた。
東京駅丸の内口から伸びる通りはイルミネーションで彩られ、きれいにした男女が楽しそうに歩いている。
地下街では賑やかなクリスマスソングが流れ、ショッピングモールの抽選会には長い行列ができていた。
就農希望に対する厳しい言葉で、移住も農業も諦めていた私だったが、ひとつだけまだ、予約を入れたままにしていた相談会があった。
伊豆南部エリアへの移住オンライン相談会だった。
以前友人から、急に遠くへ移住すると退路を断たれるから、近くから始めてみてはどうか、とアドバイスを貰っていたことを思い出していた。
そして、ふるさと回帰支援センターに登録していた私には、毎週のようにいろいろな自治体の移住相談会/セミナーの案内のDMが届いていた。
そのなかから、東京からそれほど遠くなく、温暖な気候で、植物園やバラ園などがあり、多少の土地勘があったり知り合いがいたりするところ、つまり自分にとって移住の敷居が少し低いところとして、伊豆南部エリアはぴったりだった。
実際のところ行ったことがあるのは熱海までだが、大学時代のゼミの先輩が下田市で学校の先生をしており、「下田に知人がいる」というのは、とても心強かった。
その日の移住相談会は、最初は静岡県全体の移住相談員の方と全体感の話をしたあと、下田市・南伊豆町の方と具体的な相談をする、という流れだった。
私は申込時に、就農希望だが研修や支援は年齢制限があるので難しいだろうか、ということをコメントに入れており、そこに対して県の移住相談員の方は、年齢制限があるのは農林水産省が行なっている農業次世代人材投資資金のことだと思うが、それ以外にも就農方法はいろいろあるので、詳細な希望を相談会で聞かせてほしい、という返事が届いていた。
この、希望を持たせてくれるメールは、一度は凍りついた私の心に、少し温かみを取り戻してくれていた。
もう諦めようと決めたのにアポイントをキャンセルしなかったのは、このメールが一筋の希望のように見えたから、という理由もあった。
当日になり、オンライン会議室に入室して相談会が始まった。
画面の向こうにいる、私に優しいメールをくれた女性の相談員の方と、移住希望の概要を相談した。
今は東京で会社員をしていて、どこか気候が極端に変わらないところへ移住をしたいこと。就農を希望していて、できれば花がいいが、難しいなら他のものでもいいこと。就農が難しければ、植物園や庭園など花や木に関わる仕事でもいい。といったことだ。
そして、熱海までは行ったことがあること、下田市に知り合いがいることも付け加えた。
女性相談員の方は、私のひとつひとつの話を真剣に聞いてくれ、相槌を打ち、またときには「立ち入り方がちょうどいい」程度の質問を投げかけてくれた。
そのコミュニケーションはあまりに心地よく、やや饒舌になるほど私の気持ちは高揚していた。
また、女性相談員の方は、静岡県での就農支援制度などについても事前に調べてくれていた。
ただしこっちのほうは、あまり芳しい成果は得られなかった。
しかし相談終了時には、「具体的に、どんな働き方ができるか、下田市と南伊豆町の担当と、このあと詳細に相談してみましょう。」と、明るい笑顔を投げかけてくれた。
5分ほどの休憩をはさみ、下田市と南伊豆町の相談員の方と、オンラインで繋がった。
下田市の方はジャージを羽織った50代と思しき男性、南伊豆町の方は30代前半かと思われるほどの若い男性だった。
唐突に、県の女性相談員の方の口調が変わった。
「お久しぶりですー!あ、そういえばあのときの○○さんってあのあとどうでした?○○さんの××ってどうなんでしょうね〜?なんかあのときの……」
私そっちのけで、雑談が始まった。
5分ほど、3人で雑談に花を咲かせたあと、ふと私の存在に気づいたように、相談会が始まった。
「あ、それでね、今回の相談者の方なんですけど、東京在住の会社員の方で、静岡県に移住をご希望で、静岡県には熱海までしか行ったことはないけれど、下田市にお知り合いがいるそうです。農業をご希望とのことですけれど、植物に関わる仕事がしたいそうです。」
ですよね?というように私に視線を投げかけてきた。
私は、少し出鼻をくじかれた思いで、あまり前のめりに相談するのはやめたほうが良さそうに感じた。
「静岡県は温暖な気候ですし、下田に知り合いもいるので、移住にいいかなと思いまして…」
下田市の男性相談員の方は、急に表情を曇らせて言った。
「農業ねぇ。」
私の口から就農希望を伝えることが、よくない結果を招くことを経験から知っていたので、路線を変更してみようと考え、こう答えた。
「就農はいろいろ難しいことはわかっているので、一番の希望としては農業ですけれど、農業ではなくてもいいんです。植物に関わる仕事がしたいんです。」
下田市の男性相談員の方は、少し苛立ったような表情を見せた。
「どんな暮らしをしたいんですかね。」
心臓が、とくん、と鳴った。
これは、良くない兆候だ。
そう思った瞬間、いろいろなことがフラッシュバックのように頭の中をよぎり、自分のなかで何かが崩壊した。
「あまりに東京での仕事が忙しすぎて、地方の町に引っ越して、少しゆっくりしたいんです。スローライフのような生活がしたいんです。」
とたんに、下田市の男性相談員は、明らかに怒りに満ちた声色になり、こういった。
「そんな気持ちで移住して、急に農業始めてスローライフだなんて、周りの人にそんなんで受け入れてもらえるわけないでしょ。直接地元に貢献して初めて、受け入れてもらえるんでしょ。」
ああ。結局こうなるんだ。
私の心はまた、深い底に沈んだ。
言葉をなくした私の様子に、県の女性相談員の方は、少し慌てた様子で会話に割って入ってくれた。
「東京の会社員でお忙しくて、なかなか下田の方まではまだ行ったことがないってことですから、まずはね、現地をいろいろ見ていろんな方の話を聞いてみていただくってことから始めるといいですよね。」
その言葉を聞き、下田市の男性は少し怒りを収めたようではあったが、険しい表情のまま、こう言った。
「忙しい忙しいってね。私も東京23区に住んでいて移住してきたから東京のことはわかるけど、そんなに忙しいことなんて、ある?」
そうか、やっぱり私の今の生活は、普通じゃないんだ。
東京ですら、普通じゃないんだ。
改めて、それを感じた。
「休みが取れなくて、有休取得日数が規定に足りていないと、人事部から怒られるくらいには、忙しいです。」
小さな声で、私は答えた。
すると、下田市の男性相談員の方は急に声のトーンを落とし、「そうですか。」と言い、口を閉ざした。
県の女性相談員の方は、この気まずい雰囲気をどうにかしようと思ったのか、少し大げさに手を広げ、
「お忙しいってことですけど、まずは現地に行ってみて話を聞くのが大事ですからね。」
と声を張って私たちに語りかけた。
すると下田市の男性相談員の方はふと思いついたかのように、私にこう尋ねた。
「伊豆バラ園は、知り合いがやってるから求人があるか聞いてみるよ。あと、植物じゃなくて動物は、どう?」
私が口を開く前に、県の女性相談員の方は笑いながら
「植物と動物じゃ随分違いますよ〜」とツッコミを入れた。
個人的には、植物と同じくらい動物も好きなのだが、ここでなんと言えば正解なのかわからず、私はただへらへらと笑っていた。
そんな私の様子を見てか、あるいはなにも気づいていないか、下田市の男性相談員の方は、涼しい顔になり、こう言った。
「こっちに知り合いも多いからさ、ちょっと求人は聞いてみるよ。だいたいみんなね、いろんなことをして暮らしているから、アルバイトを掛け持ちしたりすればいいと思うよ。」
この話に乗っかるように県の女性相談員の方から、「南伊豆くらし図鑑」の案内があり、「ここに載っている○○さんも、いろんなことをやっていますよね〜」などと何人かの情報を教えてくれた。
そして、「さっきから同じ話ですけど、なにしろ現地に行ってみて、いろんな話を聞いてみることが一番ですから。」と繰り返した。
だんだん、自分がどういう気持ちなのかがよくわからなくなり、私はへらへらと笑ったまま、それらの話を聞いていた。
県の女性相談員の方が、相談会終了の挨拶をするまで、私はそうしていた。
そしてこの相談会の最初から最後まで、南伊豆町の男性相談員の方は、パソコン画面の上部に目をやったまま、ほとんど口を開くこともなく、表情を変えることもなく、動くことすらほとんどなかった。