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この陸に残れず、あの舟に乗れず

 つい先日、友人と食事していたら、こう切り出された。
「昨日、彼氏と別れた」
 あまりに唐突で、「そうでござるか…」としか返せなかった。

 もともと、かなりあけすけにものを言う子なので、そんなに驚く発言でもなかったが。昨日は雨だったね、みたいな平然とした調子で恋愛の話を振られたので、そういえば、女子大生とはそういう生き物だったなぁと思わず感嘆してしまった。

 私は、恋愛に関して非常に疎い。恋人いない歴=年齢である。恋らしきものをしなかったわけではないが、最近はますます「恋ってなんだ?」と哲学的自問自答を繰り返すようになってしまった。みんな、どうして当然のように好きな人に告白して、付き合って、恋のABCを完遂してみせるのだろう。

 大学生にもなると、恋愛の話題は手をつないだとか、どこそこへ行ったとか、そういう生ぬるい話題にはとどまらない。ベッドの中の生々しい話まで聞かされることもある。その度に、私は「みんなすげえなぁ」と口をぽかんと開けるしかない。

 この現象に文筆家の牧村朝子さんは、中原中也の詩「あゝ、家が建つ家が建つ。僕の家ではないけれど。」を引用しながら、「中也感」と名付けていた。みんなは庭付き一戸建ての洋館をばんばん建てていく一方で、私だけのほほんと野っ原で昼寝していることに気づいたかのような感覚だ。

 疎外感というか、「中也感」を感じるのは、ヘテロセクシャルの人びとに対してだけではない。私は、一応クエスチョニングを名乗っていて、現在進行形でとある女の子に未練がましく片思い(?)している。しかし、肉体関係には魅力をそこまで感じないし、手をつないだり、ハグしたりする程度が限界だと思う。性欲を理解できないわけではないけれど、私にとって恋愛感情と性的欲求はセットではやってこない。

 世の大部分の人にとっては、愛の最終形態は肉体的接触に帰着すると思う。セクシャルマイノリティを主題にした漫画でも、普通に登場人物たちはキスをするし、セックスをする。ときには、同性の体を見てドキドキしたのが自覚のきっかけだと語る。そういう描写を見る度に、私はどこに行けばいいんだろうと思う。

 同性を好き、という時点で、世間的にはマイノリティにカウントされるが、性的欲求を抱かないという点においてアセクシャルやノンセクシャルはさらに別カテゴリーに分類される。専門書でも、アセクシャルと他のセクシャルマイノリティは同一の共同体に属しうるか?という問が立てられていた。

 ときおり、私はこの陸にとどまり続けることも、あの船に乗ることもかなわないのではないかと不安になる。同じ船に乗れる仲間がほしい。いちばん幸せなのは、自分と同じ傾向の人と出会うことなのだろう。あるいは、わたし自身がラベルから自由になることだ。あらゆるラベルを引っぺがして、この陸も、あの船も求めず、空を飛べたら、幸せになれるのかもしれない。

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