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小説 喫茶店 第3話

第3話

Sは疲れていた。ただ、ただ、疲れていた。
あれから2週間、Sは喫茶店に行くのを控えていた。理由は簡単だ。回数を重ねるごとに、店で出される時計が大きくなっていくのが怖かったのだ。

もう、これ以上、自分の人生の時間を差し引かれるのは、止めにしたかった。このまま通い続けてしまうと、この前、喫茶店で見かけた女性のように、いつかは、等身大のような大きな時計となっていき、ついには…。

しかし、今日、Sの疲れは限界に達していた。今朝、布団から出ることもできず、会社を休んでしまったのだ。Sにしては珍しいことであった。
あの喫茶店に行くしかないのだろうか?なんとしてでも、この疲れをとらなければ、仕事もできず、生きてはいけない。

すでに、中毒にされてしまっているのだな、とSは思った。喫茶店に行かなければ、何も出来ない体にされてしまったようだ。
でも、、、、もう喫茶店には行かないほうがいい。行けば、また、人生の時間が差し引かれてしまう。

喫茶店に行く。
喫茶店に行かない。
そんなことを一日中、昼飯も取れない疲れ切った体で、布団の中に横たわりながら、Sは考え続けていた。

夕方近くになっても、疲れは一向に回復しなかった。
そして、ついに Sは決心した。やはり、喫茶店に行くしかない。こんな状態のまま、動けなければ、そして、働けなければ、これからの生活は維持できない。何より体が辛すぎる。それに・・・、とSは、続けて考えた。

差し引かれる時間がそんなに増えない限り、元気になれるのなら、まぁ、諦められる範囲ではないだろうか。なんとか、そうした範囲で収まるよう、これからうまく調整してやっていくしかない。そう思うしかない。

ただし・・・、と、続けて、Sは思った。
ただし、注意すべきは、疲れを取りたい、元気になりたい、と言うこと以外は、決して望まないと言うことだ。それさえ守れば、きっと今後もそれほど早いペースで時計は大きくならずに済むだろう。

そう決心すると、Sは、何とか気力を振り絞って身支度をすると、家を出た。

喫茶店への道のりが、今日は、果てしなく遠く感じた。何度も何度も疲れで倒れそうになりながら、Sはなんとかフラフラと歩みを進めた。

街ゆく人が皆、元気に見えて羨ましかった。喫茶店に通う前は、自分もそうだった、とSは思い返していた。疲れた、疲れた、そう口にはしていたが、今の状態と比べれば、大した疲れではなかったな、そんな気がした。

地下鉄に乗り、なんとか喫茶店のある街にたどり着くと、Sは道を急いだ。といっても、急ぐのは気持ちだけで、実際は、疲れた体を引きずるように、ゆっくりと足を運ぶしかなかった。

あと、もう少しで店にたどり着ける、と最後の十字路を曲がった、その時だった。不意に一陣の風が通り抜け、その拍子にSはバランスを崩してしまった。体がふらつき、疲れた体を支えきれずに、道にへたり込んでしまった。

ああ、疲れた。もう、このままずっと倒れていたい。Sが投げやりにそう考えていた時だった。

「大丈夫ですか。」
と誰かが声をかけてきた。そしてSの右腕を優しく引き上げてくれた。
『あ、大丈夫です。ありがとうございました。』
とSは、気力を取り戻し、なんとか立ち上がると、お礼を言いながらその人を見た。

そこには、若い女性が立ってた。心配そうにSを見つめている。
清楚な身なりではあるが、気品を感じさせる美しい女性だった。

「大丈夫ですか。タクシーを捕まえましょうか。」
「大丈夫です。ありがとうございます。」
Sが、そう繰り返し答えると、その女性は心配そうにしながらも立ち去った。

その後ろ姿を見送りながら、Sは思った。優しい人だったな。あんな人といっしょに暮らせたら幸せだろうな。

Sは独り身だった。これまでも女性と付き合うことはほとんどなかった。そしていつの間にか、中年と呼ばれる年代に差し掛かっていた。寂しさは感じていたが、素敵な女性と巡り会う機会はほとんどなかったし、機会があっても、声をかける勇気が、Sにはなかった。

今日、これほど疲れているのに、あの女性と会話を交わしたことで、Sは、少し元気になっている自分に気づいた。

一眼惚れしたような気持ちになっている自分に苦笑しながら、Sは、喫茶店に向かって、また、歩き出した。疲れた、という思いと、素敵な人だったな、という思いを交互に頭の中で繰り返しつぶやきながら、Sは、やっと喫茶店にたどり着いた。

そう。いつもの、小さな喫茶店だ。
コーヒーの香りに満ちた、その空間へのドアを開けて、Sは中へ入っていった。

To Be Continued

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