「ヴァン・ナチュール→美味しい」じゃなくて、おいしくて結果として造りがビオディナミとかだった、ということだろう。

レアなものが崇拝されるのはよくない。
例えばワインや日本酒とか
いつでも買って飲めるっていうのも大きな価値だと思うから。
だから雑誌で「ヴァン・ナチュール特集!」とかいって全然出回らない希少ワインばっかり載っていても、いやいやいや、っていう気持ちになる。
どこで買えるんですかと。

そういえばここ何年か「自然派ワイン」って言わずに「ヴァン・ナチュール」が主流になっている。
「自然派」って一般的な言葉と思っていたけど、ここまで「ナチュール」が市民権を得ると古い言葉に感じるから不思議。
そろそろナチュールブームが終わって、
別にナチュールだろうとナチュールじゃなかろうと、美味しいものはおいしいんだってみんなが思う日がくればよいのに。

ナチュールであろうがなかろうが、おいしければそれが価値なのだ、
という気持ちに通じるところでいうと
アーティストが曲を作った過程とかインタビューで読んでしまうと台無しにされた気持ちになる。(じゃあ読まなければよいんですけど)
その制作物がすべてであって、
そこに「秘話」的なものを付与したら純粋な価値ではなくなってしまうじゃん。と思ってしまう。

例えばスピッツの草野さんが、「白いズボンはいてる男の人って少ないよね?こないだ俺が白いズボンはいて街を歩いていたらさぁ……」みたいなどうでもいい小話をしているのは最高に興味あるんだけども、
この曲はこういう事件に影響されてこう感じてとか、そういうのはあんまり聞きたくない。
そしたら曲を聞くときにどうしてもそのことを思い出してしまうし。
とはいえ草野さんのことは崇拝しているから何を話されていてもニヤニヤして読んでしまうかもと今思った。

とにかく言いたいことは
「ヴァン・ナチュール→美味しい」じゃなくて、おいしくて結果として造りがビオディナミとかだった、ということでしょ?と。
それはきっと多くの人が思っていることなんだろうけど、正論すぎるし説明が難しくなるから話のネタになりづらい。
ナチュールという言葉は定義がはっきりしていないから、人それぞれ持論を展開しやすくて、説明することも山ほどあるからネタにしやすいんだろうな。

話題は全然ちがうけど、
文章の終わりを考えるのは難しい。
今回も尻切れとんぼに終わりそうだ。
娘(小2)の国語の教科書にこう書いてあった。
「文章を書く時には、『はじめ・なか・おわり』を考えましょう」と。
これすごい大事だよ。大人になってもこれできる人いないよ!と力説しておいたけど、それに彼女が気づくのはもっと後になるだろう。

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