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創作:1497を飲んだ時。
初めて来た店であるのだが、男は既視感を覚えた。
それはこのグラスを見たからかもしれない。
『エステル香がキレイです。』
そんなキャッチコピーだったはずだ。細かい事だけは覚えている。
「とりあえず、久しぶりってことで」
男はグラスを上げて、目の前にいる同級生と乾杯した。
いかにも「京都」といった感じの、マイルドであっさりした後味の口当たりだ。確かに、学生の時によく飲んだ味だと男は思った。
「まだ、1497って飲めるんだな」
このビールはもう製造していないと思っていた。
男が大学生だったのは、もう20年近く前のことだ。
2000年代の世の中は、今よりも暗い時代だったのかもしれない。それでも、男にとっては人生の中で最も輝いていた時期だった。
当時は、将来も世の中も舐めていた。
それぐらいの万能感が男にはあった。何者になろうとしていたわけでも、自分が何者なのかも関係なかった。
時間が流れるとともに、あの時期を振り返る事も少なくなってきた。
それは、あの頃のツケを支払うように、男は現実に追われて過ごしているからかもしれない。
同じ時間を共有した友と、そんな頃の思い出話を語り合える事は、本来は楽しい事ばかりの筈だ。
それなのに、男は居心地が悪い。
なぜなら、隣に座っている同級生の事を、男は思い出せないでいるからだ。
特徴のない同級生の顔が、男のメモリーの画像のどれとも一致しない。
「よく、ビアビアに行ってたよな。ほら、ヒサシがバイトしていた店」
「あぁ。そんな名前だったな。大宮の駅前だろ?」
男は、その店の事を覚えている。パチンコ屋の地下にあった店だ。
少し日本離れした内装。確か、パエリアとかを出すような店だった。それに、ヒサシの事も男は覚えている。アメフトをしていたやつだ。もう何年も会っていないが。
「そうそう。ヒサシが、そこの調理場のチーフに気に入られていて、ヒサシと行ったら、1497がほとんど飲み放題だったもんな」
同級生が言う事に間違いはない。その通りだった。
「けど、本当のところヒサシの奴、ホールの主任には、俺達をあまり連れてくるなって怒られていたらしいぜ」
あの頃の記憶が蘇ってくるが、男はこの同級生とその店に行った記憶がない。
「こいつは誰だ?」そういう警戒と、忘却の罪悪感の狭間にいて、男は決定的な判断ができない。それでいながら、昔話は男を心地よくさせている。
「やっちゃんとは上手くいっているのか?」
男の妻の事だ。同じ大学の1つ下の学年だった。「という事は、俺はこいつを結婚式に呼んだのだろうか?」自問するが、男の記憶には全くその事がない。
「結婚して10年も経てば、そんな事を考えないな」
「そうか。そんなもんか。それはそうと、結婚式に行けなくて悪かったな」
結婚式に招待したけれど、来られなかった奴がいた気がする。男は記憶の糸口をつかんだ気がした。
「いや、いいんだ。そういうお前は、結婚していないのか?」
★
帰宅途中に、男はこの同級生に声をかけられた。
「ほら、大学で一緒だったスズキだよ。懐かしいなぁ。こんな事あるんだな!?」
そう言われても、誰なのかわからなかった。ただ、スズキという名前に心当たりはあった。それで、適当に話を合わしていた。
そのうち思い出すだろうと思って、スズキに誘われるがまま、飲みに行くことになった。
1497が飲める店があると言われたのだ。
男は、ビールの味などさして変わらないと思っている。
ただ、1497だけは違うと思っている。学生の頃に初めて飲んだビールという思い入れを抜きにしても、そう思っている。
他のビールを飲みだしてから、1497が全然違う味だと気がついた。
苦味が薄く、スッキリというよりかは、口のなかに香りが広がる感じがした。
今、飲んでいるのが正にそれだ。
確か、10年以上前に販売を終了した筈なのだが、復刻して京都以外で飲めるようになったのかもしれない。男はそう思うようにした。
それにしても、スズキは一体誰だ?男は、必死で記憶を辿るが、思い出せない。
★
「いや。俺は結婚していない。独身のままだ。あんなことがあったしな」
どんな事だ?だが、男は素直に聞くのは怖い気がした。
沈黙の時間が少し流れ、男はトイレに行こうと思った。尿意が理由ではない。妻に電話するためだ。
「わりぃ。ちょっとトイレに行くわ。年取ると近くなるんだ」
スズキは快く了承してくれた。尤も、トイレに行く事を咎められても、行くつもりだったが。
生憎、男の妻は電話に出なかった。一応、帰りが遅くなる事と、スズキについての情報が欲しいというメッセージだけは送った。
「電話、通じなかっただろ?」
スズキが冷や水を浴びせるように、静かに言った。男はまるで背骨を直接触られたように、体を丸くさせた。
やっぱり、スズキという同級生なんていないと男は確信した。
「お前、誰だ?」
★
「まぁ、やった方は忘れて、やられた方は憶えているという事はあるからな」
スズキは静かに杯を持ち上げ、それを口元に運んだ。
スズキの言っている意味が、男にはわからない。
「わるいが、俺は帰る。俺はお前の事を知らない」
勘定する気もなく、男は立ち上がった。
「無駄だ。ここからは出られない」
スズキの言葉を無視して男は出口を目指す。
しかし、扉がどこにもない。
「なぁ?お前は幸せか?」
後ろからスズキが話しかけてきた。男は振り返る事も、前に進む事もができないまま、ただ立ち止まっている。
「言えよ。昔に戻りたいんだろ?」
過去を大切にして、男は生きているわけではない。それでも、あの頃が楽しかったと思うのは、今という時間の流れが速くて、ついていくのがキツイからかもしれない。
「だから、お前は選択したんだ。罪も感じないまま、何事もなかったように」
わからない。わからない。
「ほら。もう一度乾杯をしよう」
その時、男のポケットから着信音が聞こえた。スズキが舌打ちをしたような気がした。
「聞こえる?聞こえるでしょ?戻ってきて。戻ってきて……」
★
「今度京都に行かないか?」
男は何事もなかったように言った。
「バカ」
涙を溜める事ができなかった目をこすることなく、妻が答えた。
病室には、二人しかいない。
「なぁ。スズキって誰だっけ?」
混沌とした頭では、現実を把握する事が男には困難だった。男が出会ったスズキと、ここにいる妻のどちらが本当なのだろうか?
「何で?何であなたがスズキ君のことを知っているの」
妻の声のトーンが上がった。
1497のように、後味はあっさりしない。
それでも、男は現実を生きていく決心をした。
今度は杯を交わす相手を、自分で選べるようになろう。男はそう思った。
おわり
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![中島亮](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/37890943/profile_aaa9b95afb2ccff9fdca4b4842326d23.jpg?width=600&crop=1:1,smart)