彼岸此岸 :超えられない壁
それは突然だった。私が私とすれ違った感じ。その瞬間に『裏の私』というのが「お疲れ様。もう大丈夫だよ」と言ったのが聞こえた。訳がわからないけれど、そう呼ぶしかない存在がいた。不気味ではない。赤ちゃんの甘い香りのような、温かい存在。匂いはわからないけれど、いつまでも触れていたいと思わせる魅力的な雰囲気だった。
病気で亡くなった私は、とうとう此岸から離れるのだろう。彼岸というのが本当にあるとしたら、そこから音が聞こえている。キーンと響く、仏壇のお鈴の音に近い。その音に吸い寄せられるように私は、浮かび上がっている気がする。
家族や友達の元にお別れを言いに行けばよかった。今となってはケンイチの事に執着していた私が馬鹿だった。リエコに嫉妬していた私は愚かだ。リエコだけではない。他の女の子にも同じ感情を抱いていた。
ケンイチは人間ではないかもしれない。命を馬鹿にしているような話ぶりが、私にそう思わせた。
結局、あいつらが何者なのかわからなかった。ただ、知らずに逝ける方がまだいい気がする。
「ダムには行かない方がいい。あいつらが何を企んでいるのかわからないけれど、『母親』を連れていっては駄目」
私は『裏の私』がそう言っているのが聞こえた。何の事かわからないけれど、『裏の私』は私よりも尊い存在のような気がした。
私は守られていたのだと思う。病気で亡くなったけれども、『裏の私』がいなかったら私はもっと酷い事になっていた気がする。
私は恵まれていた。私は幸せだ。
心が軽い。
お鈴の音が近い。私は誰に言うでもなく「ありがとう。さよなら」と口にしたのだった。
つづく
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一日延ばしは時の盗人、明日は明日……
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