悲しいかい? :超えられない壁
「リエコ。お前にあの女の人を殺すことはできないよ」
ケンイチが悲しみも、怒りもない、水のような声で言った。私がケンイチの側を離れられないのは、私がそうしたいのではなくて、そう思わされているのかもしれないと、その時に思った。
「できるよ」
開けてくれた黒いエスカレードのドアを、私をおろした後に、ケンイチは静かに閉めた。もしかしたら、私はここで終わりかもしれない。『表』の私はもういない。私が私になったという事は、そういう事なのかもしれない。
「そうか。では、やってみるんだな。前のお前もそう言って『裏』になってしまったんだ。今度はしくじるんじゃないよ」
ケンイチの目的なんて、私が知らなくてもいい事だろう。私はただ、ケンイチの側を離れたくない。私は死んでも、こうやって生きる事を願わなければならない運命にあるのだろう。何のためだろうか。何で死んでからも、生きなければならないのか。何で、誰かに依存しなければならないのか。
「悲しいかい?」
ケンイチが私の指先を見つめてそう言った。心は丸見えなのだ。私はただ、声を出さずに首を振るだけ。もしかしたら、さっき出ていった『カオリ』という女の子についていけばよかったのかもしれない。
暗闇の筈なのに、ダムの岸にいる幽霊と、人間を私は確認できた。それは、無数の明滅する花弁のせいだった。理屈はわからない。嘘の花弁なのか、人の目に見えるモノなのか知らない。私は前を向いて生きていた訳じゃなかった。よそ見をしていたから、泣きを見た訳じゃなかった。何も知らない。何もわからないから、私はケンイチの赴くまま、ケンイチだけを見ていたい。
「行けよ」
冷たい言い方だけれど、ケンイチの言葉に、魂の底に沈んだ、泥だらけの凶器の光は感じられなかった。むしろ私にとっては耽美な声。ケンイチの全てが、私なのだと思う。私は不安定だ。だからこそ、盲目的に信じなければならない。
私は、当たり前のように生きている人間の方の背後に近づいた。この女をダムに突き落とす事にした。
「やっぱりね。みんな来ちゃったよ」
ケンイチがそう言った。意味がわからなかった。それでも私は歩みを止めなかった。
つづく