一滴の涙は、借り物ではない :超えられない壁
ツーンとする夜。暗闇が心地よい。
悪魔か鬼のフリをして、私はダムに辿り着いた。
この辺りの全ての生物が、呼吸を止めたように静かだった。
名も知らない樹々や、草花たちを動かす微風も吹かず、沈々としてふけている。
私はすぐにサクラの場所がわかった。実際にはありもしない花びらが、ずっと奥のほうから漏れてくる蝋燭の灯りのように、静かに瞬いて、私を導いたからだった。
「あぁ」
私はそれほど驚きもせず、ただそういう息を吐いたに過ぎなかった。
私が死んだ頃の、私の年齢にほど近い、私の娘の変わり果てた頬に花弁は落ちた。時間を超えて対面したその姿だが、あの頃の面影が十分残っていた。
歌が好きな子だった。
音楽を聴けば、すぐに踊りだしていた。
まだ生まれたばかりのカエデを可愛がっていた。
そうだ。カエデがサクラの髪を引っ張っても、サクラは泣く事も、怒る事もしなかった。
「カエデちゃんの指から私の髪の毛をはなして!」
サクラは強い口調で、私にそう命令していた。
サクラとカエデの未来は明るいはずだった。それに私と夫は幸せだった。幸せ過ぎて、毎日が怖かったのかもしれない。
「誰?」
サクラの顔を見ていたサクラの幽霊が、私に気がついた。死んで間もない彼女は、自分が視られている事に違和感を抱いていない。
「わかる?迎えに来たよ。サクラ」
過信しながら、姿の変わった私はそう聞いた。そう言うしかない。冷静を装う自分はやはり、悪魔か鬼なのだろうか。サクラはどちらとも言えない顔をして、きょとんとしている。
「もしかして、お母さん?私のお母さんなの?」
借りている『表の私』の体なのに、私は鼻の奥が熱くなり、ツゥーと生暖かい滴の涙を流した。それからは、破裂した水道管のように涙が止まらなくなった。
「もう大丈夫よ。サクラ。ごめんね。ごめんね」
これ以上の事を、私は言う事ができなかった。
つづく