解説『包む一族』について
書いたものを自分で解説するのは無粋かもしれません。なので、解説というよりかは、僕が考えていることや、気がついたことを書こうと思います。
『包む一族』という短い話を書きました。このお話で僕が書きたいことが何だったのか、今一度振り返りたいのです。
このお話は、ヒンドゥー教のカースト制度を細分化した、ジャーティと呼ばれる職能集団から着想を得ました。
ジャーティとは職業です。それは、生まれたときから、就かなければならない仕事の事です。血縁と地縁によって職種は決められています。例えば、靴を作っている一族は、親子だけでなく、一族全員が靴職人という訳になります。今では職業選択ができるようになっているのかもしれませんが、確かにそんな時代がインドにはあったそうです。もしかすると、今でもそうかもしれませんが。
職業選択の自由が認められている僕からすると、ジャーティという制度は窮屈に見えます。それにカーストと相まって、身分が低い職業の一族に産まれたら、僕なら一生劣等感を抱きながら生きる事になると思います。
しかしながら、こうも思いました。「はじめから、何をするべきかを知っている方が幸せかもしれない」と。そして「大きすぎる夢ではなく、叶えられる、小さな幸せを叶えていく方が健全ではないか」と思ったのです。例えば「家で缶ビールを飲みたいから、今日は奮発してビールを2本買う」そういう幸せでも満足できるのではないかと思ったのです。
僕は自由が正しくて、不自由は間違いだと思っています。でも、それは固定観念です。考えてみると、自由を求める事が苦悩を産みだしている事があります。「やりたい事をやる事が幸せ」という価値観は、自由が認められている社会で聞く台詞です。つまりそれは「やりたい事ができていない、わからないうちは不幸だ」という苦悩を産み出している事かもしれません。
ジャーティーのように、生まれた時から仕事があれば、そんな苦悩は不必要です。それに、一族が同じ仕事をしているので安心できます。ジャーティーというのは小さな単位の社会保障になっている気がします。もし、一族の中で問題が発生すれば、一族全体でそれを解決するでしょう。なぜなら失業というのは、個人の問題ではないからです。雇用先に迷惑をかけてクビになれば一族が路頭に迷うのです。
当然、異端者は弾圧されるでしょう。『包む一族』で描いた、自由を求めた彼のように、どこかに連れ去られるのです。
負の面もありますが、その制度は、誰もが一定の生活ができる仕組みなのです。自由主義と比べて劣っていませんし、別の見方をすれば進歩的だったりします。
ジャーティーというのは1人でできる仕事を細かく分けて、それしかしないという職能集団です。自由主義の社会でも分業というのは当たり前ですが、ジャーティーはもっと細かいらしいです。
例えば、レストランの給仕といえば、大まかに3つの仕事があります。注文を聞いて、食事を運び、片付ける。それをジャーティーでは、『注文を聞くだけの仕事の一族』、『食事を運ぶ一族』、『片付ける一族』で仕事を分けているようです。1人でできる事を細かくわける事で、雇用を増やしているのです。当然、1人分の給料を3人でわけるので、稼ぐには非効率です。下級のカーストに産まれると、最低限の生活を一生過ごすらしいです。
自由主義で育つと、そういう一生が不幸に見えます。しかしながら、「本当はどうなんだろうか?」というのが僕が考えている事です。もしかすると、はじめから「これしかできないのが当たり前」と思っていたら、昨日と同じ事を今日すれば、明日も生きられるという事に幸せを感じられるような気がするのかもしれません。
そんな事を描きたかったのです。
ここからは、物語を書く上での反省点です。
短編にこだわりすぎた事が一番の問題点です。物語を書く上でカットしすぎると抽象度合いが高くなるのだと実感しました。かといって、このお話をもっと長く書くつもりがないという、僕のやる気のなさも、わかりにくい物語になった原因です。
そもそも『包む一族』というタイトルが悪かった。名前がミスリードというか、色んな想像をさせてしまうのかもしれません。『包む一族』は、運送業の中での分業で、商品を箱に詰めるというような事ばかりをする一族をイメージしていました。なんでもよかったのですが、思い浮かんだものを適当に書いたという僕の心構えの問題ですね。
解説のつもりでしたが、伝えられているかは僕にはわかりません。物語でしっかり伝えられる文章を書けるように精進したいです。