大丈夫 :超えられない壁
恐ろしい時は過ぎ去ったと思う。と言っても、俺は具体的な事など全くわからなかった。なんとなく怖かったという、頼りない感想だ。同時に、確証はできないが、一段落した気になっていたのだ。
しかし呻き声が聞こえた時、俺は再び恐怖した。ケンイチと呼ばれる男は、そんな恐ろしさが染みついている人間なのだと思う。同時に俺は、そういう俺の主観が勘違いである事を願った。
サクラは微笑みながら消えていった。俺がわかるわけがないが、俗な言い方をすれば、成仏したのだろう。そう思うしかない。わからない事はわからないままでもいい。これでいいのだと自分を言い聞かす。
「死んだから駄目じゃない」という言葉は、一種の清新さを含んだ皮肉にも聞こえた。だが、それ以上に俺は安心もした。事実は変わらないが、価値観は変えられるような気持ちになっているのだった。「これでいい」という妥協ではない。それでは、あまりにも頼りない。「こうしよう」という決断の一歩手前ぐらいに物事を捉えることで、事実は変えられるのかもしれない。
「視える?聞こえる?」
トシヤ君が体育座りをして、ケンイチに話しかけていた。
そういう事は止めた方がいいような気もするが、万が一ケンイチに悪意が残っていたら、タチバナさんが危ない。できる事はやっておくということだろうか。
「君は子供のころに死んだんだね」
ケンイチは返答する代わりに、急にまともな声でそう問いかけてきた。ああ。やっぱり怖いな。その声を聞いたら、背骨を冷たい刃物で、直接撫でられるような戦慄を、俺は感じた。きまった神なんかを俺は信じていないけれど、どこかに神が漠然と存在して欲しい。理屈抜きに怖いのだった。
トシヤ君は、体育座りしたままだった。何か言葉を発しようとしていたが、ケンイチが先に口を開いた。
「そっちの君。そんなに怖がらなくてもいい。俺はじきに消えるよ。全て終わったんだ」
もしかしたら、彼は運命を支配しているのではないかと思えた。勝手な解釈をすれば、これも神の摂理なのかもしれない。
「どっちでも良いんだが、もう一回生きるつもりはないか?この体は空っぽになる。君たち2人のうちで生きたいと思う方が入ればいい」
言っている意味は、なんとなくわかる。しかしながら、俺は自分で死んだ。今更、ケンイチと呼ばれて生きるつもりはない。
「いいんだ。放っておいてもいい。一方的な好意で言っているだけなんだ。ただ、生きている体があったほうが便利じゃないか?俺として生きるのは窮屈な事じゃないよ。前にできなかった事を、俺の体をつかってやればいい。どうせ何十年後かには今と同じ状態になるんだ。どうだい?」
トシヤ君と俺の方を交互に見ながら彼は口を開いた。
彼の言っている事は一方的過ぎると思う。もしかしたら、それほど頭がよくないのかもしれないと俺は思った。絶対に裏がある。彼に従う気などない。
「そう。それでいいの。従わなくていいよ」
タチバナさんが俯せのまま口を開いた。これで大丈夫だと思った。俺は何の気兼ねもしない。ケンイチの事は放っておけばいい。
つづく