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創作:「やってよかった」と思える幸せ

「怪我するんじゃないの?」と、ラグビーを始めた時に、サカモトは母親に言われた。「するんじゃないの?」と言われても、それがどういうつもりで言っているのか、彼は上手く理解できなかった。

ラグビーをやめて欲しいという事だと思ったが、それなら、「やめてくれ」と言うだろうし、「ラグビーをする事は賛成できない」と言えば通じる。
しかしながら、母親はそんな事を言う事はなかった。ただ、「怪我するんじゃないかと心配しています」と受け取れる言葉だけを、投げかけられた。

母親の真意など気にすることなく、高校生の頃から始めて、大学を卒業するまでサカモトは、ラグビーに打ち込んだ。

大きな試合の時には、母親は試合を見に来ていた。怪我するかもしれない息子の姿など見たくないものだと思っていたが、意外なことに、母親はラグビーにハマってしまったようだ。

2019年のワールドカップの際には、熱心に応募して、チケットを購入できたそうだ。母のお気に入りは、日本代表ではなく、イングランド代表チーム。『スウィング・ロウ・スウィート・チャリオット』をスタジアムで、イギリス人と混じって歌っている母親の姿が、テレビに映っていた。


実際のところ、現役の時にサカモトは一度、鎖骨を折った。また、肉離れになった事も、足首をひねったこともある。
それでも、怪我が原因で、本人はラグビーをやめたいと思った事はなかった。
母親も、「ラグビーをやめろ」と言ってきたことはなかった。

ラグビーを辞めて、20年ほど経ってから、サカモトの息子がラグビーをしたいと言ってきた。自身が大した選手でもなかったと、サカモトは自覚しているが、息子がラグビーに興味を持った事に対して、彼は嬉しいという気持ちの方が勝っていた。

キツイ練習や、負けた試合の後の悔しさをハッキリと憶えている。
遊びたい気持ちと、その時間を我慢して、犠牲にしてきた事が、時には馬鹿らしくなった事もあった。

それでも、思い出はいつだって晴れた日の記憶。冷たい雨に凍えた事など、好き好んで振り返る事はしない。
そんな風に、ラグビーをやって良かったと思えるぐらい、サカモトは、ラグビーをしていた頃の思い出を、大切にしている。

息子がラグビーに興味を持った事に、正直なところ、複雑な気持ちを抱いてはいるが、嬉しいという気持ちの方が少し勝っていたのだ。

そして、サカモトは、息子がラグビーを始めた事を、一応、母親に伝えた。

案の定、「怪我するんじゃないの?」と昔と同じ事を、母親は言ってきた。

自分が、自分の孫が痛がる姿をみたくないのか、本当に孫の事を心配しているのか、今回も真意はわからない。

怪我なんて、しないほうがいいに決まっている。
しかしながら、ラグビーでなくても、生きていれば確実に怪我はする。転んで、膝を擦りむくことも、包丁で手を切ることも、交通事故に遭う事だってある。

例をあげればキリがない。確かに、スポーツをしている人なら、特にラグビーみたいなコンタクトスポーツをしている人の方が怪我する確率が高いかもしれない。
だからと言って、何もしない生活なんて面白くない。生きている間は、みんな何かをしている。
怪我をしたくないからと言って、何もしない人生なんてつまらないだろう。

「怪我したぐらいでは、あいつはラグビーをやめないと思うよ」

半分はそう思っている。もう半分は、サカモトの願いだ。やるなら、納得できるまで息子にはラグビーをして欲しい。
何ができるかわからないし、これから何を手に入れるかも、どこまでの高みに登れるのかも分からない。

ただ、間違いなく、ラグビーをする事で、言葉や、仲間なのか、何かで優勝するタイトルなのか、それはわからないが、何かを得る事はできる。それがどれほどの価値があるのかはわからない。
辛くて辞めたいと思う事もあるだろう。
それでも、時間が経てば、「やってよかった」と思える日が来る。その日は、自分に自信が持てる日の事だ。

サカモトはそう思った。



母親がサンバを始めた。

サカモトは、サンバが具体的にどういうモノなのか知らない。ただ、サンバという言葉から、半裸の女性の姿をサカモトは思い浮かべた。

「恥ずかしくないのか?」

母親は、サカモトの言葉の真意がわからなかった。

「やめてくれ」と思っているなら、そう言えばいい。

それなのに、「恥ずかしくないのか?」という事は、息子自身が恥ずかしいのか、自分の事を心配して言っているのかわからない。

何もしない生活なんて面白くない。
恥ずかしがっていたら、何もできない。

サンバをする事で、何かを手に入れる事はできる。

「やってよかった」と思える日が、幸せだという事を、母親は知っている。

おわり





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