それを拭いたのはハンカチじゃない:超えられない壁
風が耳に当たった。前髪がめくれ上がり、目を開けていられなくて、自分の顔がしょっぱい時の顔になっているのがわかった。誰に見せる訳でもない。お姉ちゃんだけしかいないのだから、恥ずかしさなんて微塵もなかった。
先に着きたくて、私は精一杯ペダルを漕いだ。いつ振りだっただろうか。自転車なんて、長い間乗っていなかった。サドルが温かくなる感じが妙に懐かしかったのを憶えている。昔はお姉ちゃんの背中を見失わないようについていったのに、ティーヌ浜を目指す私は、お姉ちゃんよりも先に走っていた。
波の音は聞こえなかったけれど、海の匂いで鼻が赤くなった。どちらかと言えば、いい香り。それは、本島と、この離島をつなぐ橋から見えた、透き通るエメラルド色の海を見ていたから、そう思ったのかもしれない。
あの日、あの旅行が私にとっては、お姉ちゃんとの最後の思い出になった。そして、一番大事な思い出。
「女同士で見に来るのも悪くはないね」なんてお姉ちゃんは言っていたけど、周りは恋人と来ている観光客ばかり。私は少しばかり、居心地が悪かった。
それはあの時、ケンイチと上手くいっていなかったからだったと思う。ケンイチは悪くない。今でも私はそう思っている。私が嫉妬していただけだから。私は落ち込んでいたわけじゃなかった。けれども、お姉ちゃんの気持ちが嬉しかった。実際、沖縄に来てからはすごく気分がよかった。
「つらいのは、自分だけだって思ってもいいんだよ」
「えっ?」
お姉ちゃんがボソッと言った。カップルの片割れの嬌声と、波の音で騒がしい砂浜では、お姉ちゃんの声は弱々しかった。少しばかり自信がなかったのかもしれない。それに、折角の旅行を台無しにしたくなかったかもしれない。いつだって、お姉ちゃんは私の事を大事にしてくれていた。
「大丈夫だよ。ねぇ、お姉ちゃん写真撮ろうよ」
わざとらしく私はあの時、旅行気分を盛り上げた。
もう写真を見る事はできなくなった。お姉ちゃんに会いたくても、私はこの場所を離れる事を許されていない。あの旅行でティーヌ浜を目指したように、私の方がお姉ちゃんよりも先に来ちゃったね。
お姉ちゃんが今、何をしているのか私はわからない。せめて、この世にいるお姉ちゃんを見守る事ができたらいいのに。
あんな事があったのに、私の事ばかりを考えてくれたお姉ちゃん。
それなのに、先に来てごめんね。「つらいのは、自分だけだって思ってもいいんだよ」って言われた時、凄く軽くなったんだ。でもね、私は何も考えずに先に来ちゃったのかもしれない。
お姉ちゃんの事を考えずに、こうする事で楽になりたかっただけかもしれない。
「ごめんね」
私は幸せだったよ。
お姉ちゃんの妹に生まれてきてよかった。
いつかまた、会える日が来たらいいね。
また、沖縄に行きたいね。
そうだ。
もうすぐ桜が咲くね。
あれから2回、春が過ぎたけれど、その間私は一度も桜を見ていない。3度目も見られないかもしれないよ。
私、泣いているのかもしれない。そういうきまりなのかもしれないけれど、涙は流せないんだ。当然、それを拭くモノもない。だけど、とても、とても悲しいんだ。
ずっとそばにいたかった。
わからないよ。わからないんだよ。なんでこうなってしまったのか。
「次の年も一緒に見たいね」
いつだって、私はちゃんと約束しなかったね。いつだって、お姉ちゃんの背中を追いかけていればよかった。調子に乗って、先走って、謝ってばかりだよ。
会いたいよ。会いたい。
せめて、お姉ちゃんの幸せを祈らしてほしいよ。
お姉ちゃん。
本当にありがとう。
おわり