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安土城天守(安土御天主)復元研究の過程と考察③(本論)


(※先行研究をなされた方々に敬意をもって執筆をさせていただきましたが、万が一、引用方法の問題やその他至らない点等がございましたら、訂正をいたします。Twitter「安土城天主研究」へご連絡ください。)

◯「天守指図」について

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▲「天守指図」(『國華』第987号 安土城の研究(上)朝日新聞社 1976年より引用。なお、以降の「天守指図」も出典は同様で、適宜筆者の加筆を加えたものもある。)

 内藤晶博士によって静嘉堂文庫から発見された、安土城天守の設計計画図の写しとされる「天守指図」という平面図が存在するが、宮上茂隆博士をはじめとした諸研究者によって数多くの問題点が提示されている。

 事実、「天守指図」では、部屋の広さの単位「間」が誤って「畳」と等しいものとして解釈されていたり、『安土日記』や『信長公記』には明記されていない部屋、吹き抜け、宝塔、能舞台、橋などの構造物が書かれていたり、窓が存在する場所が一方に偏っていたりするといった数々の問題点が見受けられる。

 このことから、「天守指図」は当時の安土城天守の構造を正確に表した平面図ではないと考えられる。

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 しかし、「天守指図」が完全に創作された平面図であるのかについては一考を要する。例えば、上図「天守指図」地階の赤・青の2線(筆者着色)の部分をご覧いただきたい。

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(▲『國華』第987号安土城の研究(上)朝日新聞社 1976年 より筆者の加筆。以降の天守台実測図も同様である。)

①  まず、先ほど示した赤線部を抽出し、それを上下反転させる。

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 その結果、「天守指図」赤線部と、天守台地階の周囲の石垣のうち北西部のラインとがほぼ正確に一致する。

②  同様に、「天守指図」から青線部を抽出して、これを180°回転させる。

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そして、このように180°回転した線(↑上図)を適切な位置に移動させる(↓下図)。

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 その結果、「天守指図」青線が天守台地階北東・南部の石垣ラインと正確に一致することがわかる。

 したがって①・②より、「天守指図」に記されている少なくとも一部の線は、実際の遺構と一致するという事実から、線の記され方の誤りを訂正する限りで資料的に真性であると考えることが可能である。

 もちろん、何らかの人物が後世に「天守指図」を創作する際、実際に現地を訪問して安土城天守台の測量を行った可能性も否めず、そのために「天守指図」の一部の線が、遺構の形状と一致するものになったと推定することもできる。

 しかし、その線が地階穴蔵部の周囲に巡らされることなく何故か片側へと寄せられて、その結果奇妙にも二重に重なるように記され、さらに線の正しい方向や表裏まで誤解されているといったことから、「天守指図」を作成した人物は、天守に訪れて地階穴蔵を実測していなかった以上に、地階の形状がどのようなものかを知らなかった思われる。つまり、それらの線が天守台の地階穴蔵の周囲の石垣ラインであるという認識自体がなかったと考えるのが妥当であろう。

 また、天守炎上時に天守台上部は崩壊し、残存する石垣も土砂に埋没したため、天守台の上部平面の形状は、天守が消失した後では詳細に知ることは出来なかったはずであるが、「天守指図」に記された天守台の形状は、若干の誤差はあるものの概ね実際の遺構と一致するということが平成の滋賀県による天守台発掘調査からわかっている。

 このような事実から、「天守指図」の一部の線は、天守築城計画段階に作成された資料の断片に由来するものであり、その断片的資料を後世の何らかの人物が、現地の遺構の様子を知らないまま、無秩序に構成し書きあげる中で半創作したものであると推察することもできる。(なお、「天守指図」に記された天守台と実物の天守台の形状の間に若干の誤差が存在するのは、石垣を築いた際に生じた技術上の誤差であろう。)

 もちろん、〈「天守指図」には部分的に信憑性のある線が含まれている〉という命題が当てはまる範囲が、「天守指図」地階平面図のみに限られる可能性もある。しかし、この可能性を演繹するならば、他の各階平面図においても、当時作図された真性な資料が部分的に含まれていると考えることができ、「天守指図」のうち信憑性が高い部分を用いることで、本来の天守の部屋割をある程度正確に復元することができるかもしれない。ただし、そのような演繹的推定の正当性を確証づけるため、復元結果を再度帰納的に裏付けをすることが必須となる。

◯「天守指図」を用いた先行研究

 ここまで「天守指図」の部分的な真性を検証してきたが、ここからは「天守指図」を用いて天守を復元した先行研究について考察をする。

 「天守指図」を、ほぼ修正を加えずに天守の復元資料としたのが内藤晶先生(『國華』第987・988号「安土城の研究(上)・(下)」朝日新聞社 1976年より)と櫻井成廣先生(戦国名将の居城―その構造と歴史を考える  新人物往来社 1981年より)である。両先生方の復元は、外壁や屋根の形状、その他の細部構造、一部の室内画題などの解釈に相違点はあるものの、基本的な構造は「天守指図」を軸に一致している。

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 一方で、「天守指図」地上2階と1階の構造の類似性を発見し、天守地上1階の外壁ラインを上の写真赤線のように訂正して復元を試みたのは、(おそらく)1989年に大津市の個人の方(文郷の里レストラン展示安土城天守模型の外観構造より筆者推察)、続いて2009年に横手聡さん(ブログ「城の再発見」天守が建てられた本当の理由、『2009緊急リポート 新解釈による『天守指図』復元案 ―安土城天主は白壁の光り輝く天守だった―』より、2022/10/07筆者閲覧)、また、現在は閲覧することができず、筆者の記憶になってしまうが、インターネット掲示板『安土城掲示板』にも、どなたかが同様の解釈をなされていた記憶がある。

 なお、横手聡さん(出典同)と城郭模型作家の島充さん(ブログ『城郭模型制作工房』、「豊臣大坂城(12)天守に関する珍説をひとつ」の記述より、2022/10/7筆者閲覧)はともに、付櫓や蔵の位置や天守の平面規模11×12間が豊臣大坂城と類似する点を明らかにされている点も興味深く思われる。

 このように、「天守指図」を用いた安土城天守の復元において、当初は「天守指図」がほぼそのまま復元資料とされていたが、近年、その一部を大幅に解釈訂正した上で復元資料とする場合も見受けられ、「天守指図」に対する見方が広がっている。

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