御里が知れてるんだよな
今日のテキストは、かなり個人的な内容で、自分にとっては人生の確認作業的な内容になると思っているのですが、傍から見ればただのオナニー的な文章かもしれないのでその辺何とぞ、あしからずでお願いします。
僕はいわゆる「バンドマン上がり」のサラリーマンです。元々マスザワという人間を知ってくれていた人からすれば、まだたまーにバンドやってる奴という認識をしてくれているかもしれませんが、現在のメインはいわゆるレーベルでディレクターをやっているサラリーマンという事になります。
とはいえ人生において多感な時期をバンドをやって過ごし、35歳で初めていわゆる社会人になったので、この10年間どうにかしてサラリーマンとして機能しなくては、なんとか社会に馴染まなきゃ、というマインドで日々を過ごしてきました。
どうしても上手くハマってないよな、、、という苦悩の日々を超えて、先日ある言葉が頭をよぎりました。
「御里が知れてる」
のだと。今、この言葉をしみじみ噛み締めています。インディーバンドマンの地べたを這いつくばるような生き方が身体中に染み付いているのだと。
今となっては時代も変わり、バンドマンでもいわゆる「ちゃんとした人」、つまり社会適合者の若者も多いと思います。でも僕が20代30代の頃はバンドマンってアウトローというか、僕は“愛すべき”という形容詞をつけて言わせてもらいますが「クズな人間たち」が多かったです。圧倒的に。(なかには本当にクズみたいな奴もいた。)
僕は18歳の時に大学進学で東京に出てきて、ぼんやり「バンドやりたい」という希望はあったものの、大学で入ったサークルでも全然馴染めず(という意味ではいつでもどこでも上手く行ってないのか、、、)、ひょんな事から同じ大学の別のサークルに出入りするようになり、そこでテルスターのメンバーと出会いライブハウスに出入りするようになりました。おそらくそれが19歳くらいの頃かな??
ド田舎者だった僕はライブハウスシーンにとても衝撃を受けました。衝撃を受けたというよりは初めてのことばかりで、脳みそがぐるんぐるん訳のわからぬ回転をしてる感覚というか。驚くようなライブハウスの世界、そこにいる人たち、インディーバンドの音楽性も初めて見知るものばかり。
そんななかで幸せだったのは、みんな僕と仲良くしてくれたこと。これが何より大きかったです。おっかなびっくりでずっとオタオタしてる大学生を優しく受け入れてくれたんですよね。
自分がファンみたいな存在だったテルスターに加入すると、より加速度的にバンドマンっぽくなっていき、どんどん仲間が増えていって、世界が一段と広がりました。今でも付き合いのあるバンド仲間はこの時期に知り合った奴らが多い。
月に数回ライブをやって、そこで知り合うバンドマンたちってば世間的にはダメダメな奴らばっかりなんですが、本当に楽しくて、馬鹿馬鹿しくて、くだらないけどそんな楽しい仲間と打ち上げで一晩中笑い転げてるみたいな日々だったと思います。(もちろん楽しいだけじゃなく、バンドなんか今すぐ辞めたい!みたいなことも沢山あった。)
ただ当時僕が思ってたのは、
「こいつら最高に面白いけど、きっとこの人たちは社会に出たら上手くやっていけないだろう。けど僕は違う、きちんと社会人としてもやっていけるんだ」
って。だって僕ってぶっ飛んじゃってるバンドマンに比べたら、普通な奴だから。ほんとあいつら最高に面白いもの。僕は全然つまらないけれども、その分普通。ってことは逆に、自分は社会にはマッチできるはずだって。(すべて「普通=社会」って思っちゃってるわけではないんだけど、最大公約数的な感じってことで。)
この世界が大きな牧場みたいなもんだとして「社会」という柵の中で多くの人たちが生きているとしたら僕はその柵の中から、柵の外で暴れまくっているバンドマンたちを見て楽しんでるのだ、と。反面、大好きな彼らと僕には決定的な溝(社会という柵)もあるんだという寂しさも感じてはいた。
そう本気で思っていたので、今の会社に入る時も結構うまくやっていける自信がありました。それが結局10年経っても上手くやれず、周りに迷惑ばかりかけて、それどころか疎まれているこの現実。
その理由がわからず、ずーっともがいていたんですよね。でも今年、何回か自分のバンドでライブをやりバンドマンとして過ごしながら感じたのが
「あぁ、そうか。僕はずっと柵の中にいると勘違いしてたけど、“場所的に柵に近い所だけど、結局柵の外"にいるんだな」
って。バンドマンの状態の自分ってやはり世間的なセオリーとか社会通念みたいなものを守ろうって感覚が希薄になってるんですよね。いかに楽しくやれるかが何よりの判断基準だし、その為だったらルールを破ってもOKみたいなマインドになるというか。(そんなん2023年では全くもってNGなんですけどね、、、。)
確かに、遠く柵から離れた荒野でわっしょいやってるバンドマンとは距離があるし、柵の近くのだいぶ安全なゾーンにはいるけど結局“柵の外”に立っていたんです。僕の中で拭いきれない社会と僕のミスマッチ感はここにあったんだと。
例えば、ウ○コを漏らしたら「お前、すげーバカじゃん!おもしれー!」ってヒーローになれるのが柵の外で、「なんで増沢さんはそんな事を恥ずかしげもなく得意気に話をしてくるんですか?」ってドン引きするのが柵の内側。
ここには圧倒的な差があって、僕はしばらく何故笑ってもらえないんだろう、、、、って苦悩する期間もありました。
そして正直いまだにちゃんと理解はできないけど、サラリーマンはそんな話をしちゃいけないんだな、と我慢するようになり、さらに「って事は、このネタもダメ?あの話もダメ?」ってことなのかと、僕が楽しいと思う事、最高に笑える話はどんどんできなくなり、立ち振る舞いもどうしたらいいのかわからず、どんどんドツボにハマっていく感覚。
それは、僕が柵の外にいたからなのでした。もっと言えば「自分では柵の内側にいると勘違いしていたからタチが悪かった」のです。
つくづく僕という人間の
「御里が知れてる」
ということなんだと思いました。もう抗えないバックボーンなんだと。
、、、でも。同時に僕はこうも思えたんです。
「ということは僕も、僕が大好きなバンドマンたちと似たような存在なのかも」
と。
「最高に面白くて馬鹿馬鹿しくて愛すべきあのクズたちと同類なのかも」
って。ある意味こんなに嬉しいことはありません。自分がリスペクトしている存在と仲間だなんてマジで名誉なことだ。もちろんそれは社会人が悪いという訳ではない、ただ自分がどこに立っていて、何を大切にしているかが違ってるんだよなという話。優劣ではなく区別というか。違いを認めて生きていくのが多様性ということであるなら僕は今、多様性を認識できたのかもしれません。
今年は、自分がバンドマンだからこその繋がりを感じることが多い一年でした。久しぶりのライブでたくさんの仲間に直接会えたり、仕事面でもバンドやってたからこその繋がりで仕事できたこともいくつもありました。
サラリーマンになってから先述のような生き方をしてたもんだから、バンド時代の繋がりとか仕事で使うと良くないのか、、、みたいに勝手に思い込んでいたのかも。
目立つ所で言うと、ホリエくんとも仕事したし(テナーの武道館最高だった)、錦鯉さんのマネージャーさんがバンドマン時代からの知り合いで仕事がスムーズに行ったり、まだ言えないけど昔からのバンド仲間と一緒に仕事してる案件が今2つもある。
それって僕にとって「ちょっと誇らしいことなのでは?」って思っています。
僕なんて、柵の中の人たちから見たらきっと軽蔑するくらい劣っている人間ではあるものの(本当は多様性なんだから僕のダメな部分も認めてもらいたいけど、それは高望みなんだろう)、柵の外側のやべえ奴らと仲間なもんで、彼らに手伝ってもらってパンチのある仕事できちゃうみたいな感じ。あぁ、ラッキーな人生だ、ありがたい。んでもって笑える。
笑えるかどうかが一番重要なんだよな、僕の人生は。明日にでもウ○コ漏らそう。
というわけで、もはやこの人生どんなに頑張っても普通の社会人にはなれそうもないので、サラリーマンとしての能力は恐ろしいほど低いけれども仲間だけには恵まれているおじさんとして来年も頑張っていこうと思います。
ここまで読んでくれてる人も自分の仲間みたいなもんだと勝手に思ってるので、どうぞ引き続きよろしく!
どちらさまも良いお年を!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?