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感情の記憶はいつまでも

人の名前を覚える能力が低いです。知らない人とコミュニケーション取るのもすごく体力使うから苦手なのですが、先輩が「記者は人に会わなきゃはじまらない仕事だ」と言っていたので、たまに仕事スイッチを入れて交流会系にも顔を出します。

ときどき良い出会いもあるし、先輩記者の教えは正しい!のですが、一度にたくさんの人に会うので圧倒的に名前と顔が覚えられません。今はFacebookというとてもありがたいツールがあるのでだいぶ助かっていますが、ここでも全ての人とつながるわけではないので「誰だっけ…」ってなることがあります(すみません)。

名前を見ただけでよぎる感情

先日ちょっと前の仕事のメールを見返していて、名前だけではすぐに思い出せないことがありました。メールを開いてやりとりを見たらすぐに思い出したけど、開く前に「なんかいい人だった気がする」と思ったのが印象的でした。

認知症の人は、関係性や具体的な出来事を忘れても、「この人は好き」「これは嫌い」という感情の記憶は残る、といわれることがあります。そう聞いて「そんなものかな」と思っていた話が、なんとなく体感できた気がしました。

先日、本業の媒体でこんな記事を書きました。

会員しか読めない記事なので概要を記します。

医療機関での身体拘束について、激しく暴れる認知症患者を家族だけで介護することに限界があるのは確かだけれど、「認知症で暴れるので病院で看てほしい」「身体拘束は許容できない」「身体機能や認知症の悪化はさせないで」「院内転倒などケガも絶対にさせないでほしい」といった家族の要望を全て叶えるのは、現状の医療提供体制ではなかなか難しいもの。身体拘束を減らす取り組みを徹底する病院であっても、家族からの冒頭の要望を確約することはできないのが現実で、自由と危険はトレードオフの関係との説明を徹底している。ただ、認知症を有する人の妄想や暴力行為は、本来病院に入院して治癒するものではない。問題の根源は、病院では治癒できない認知症などの疾患を持つ人が地域で暮らし続けるための受け皿がまだまだ足りないことにある。問題行動といわれる徘徊や暴力行為の陰には、その人なりの目的があったり、動機があることも多い。そこを考えたケアが地域で提供できれば、医療者も家族も本人も、最期まで穏やかに暮らせるのではないか。

もちろん心理的アプローチで全ての人が落ち着くとは思わないのですが、日頃から良い感情の記憶を抱いている人や物に囲まれていたら、拘束が必要になるほど暴れるところまで至らずにすむのかもしれないなぁ、なんて楽観的に思いました。

とりあえず、私が認知症になったら、ときどき美味しいものと好きな人に会わせてもらって、きれいな器の写真集などを与えてほしいなーと思いまた。

▼好きな人と好きな物の記憶

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