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空想の相対性

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鏡の前に立って自分の顔を見るのは学生時代以来だった。剃り残しがないように髭を剃り、髪に軽くワックスをつけて笑顔を作ってみる。
不自然だ。普段笑顔のない人間の笑い顔ほど怖いものはないと改めて実感した。

 「ちょっと、遊びすぎじゃない?」横に立っていた彼女が見よう、見まねに作った髪型を指摘し、直しを加える。背丈が合わないから空気椅子で髪を整えてもらう。足が情けなくプルプル震えているのが面白かったようで彼女は自然な笑顔で笑った。その顔を見てもう一度鏡を振り返って笑顔を作ってみる。でも、花咲く乙女と枯れ木のウドの大木では天と地の差があった。フッと軽く笑ったら「その顔は良いよ」と笑い返された。

 これでよし、とネクタイをきつく締められてつっぱり棒にかけておいたジャケットに袖を通す。彼女の満足そうな顔でやる気が生まれた。

 「社会人デビューおめでとう」パチパチ、玄関で言われて改めて照れる。今まで理想の自分が残した足跡を踏めずに地団駄を踏んできたぼくが今日から社会貢献をすると思うと、照れる。

 「行ってきます」ドアノブに手をかけてゆっくりと回す。冷たいドアノブがぼくの温かみを奪って温い。高まる好奇心と言えば格好はつくが、ただ緊張していた。ちゃんとやっていけるのだろうか? 荒波に揉まれて廃人と化すのではないだろうか? また逃げ腰だ。

 「いってらっしゃい」握りしめた手の上にそっと小さな手の平を置いて彼女は少し力を入れた。最後に肩をポンッと押されて転ぶように外に出た。家の鍵を放り投げられて外面は良いものじゃなかったけど、曇り空から覗く太陽の日差しは気持ちよかった。

アパートの階段を降りてすぐの坂道を下って、最初の信号を右に曲がってまっすぐいくと、最寄りの駅までたどり着く。いつもは彼女を迎えに行ったり、映画を観に都心まで向かう時くらいしか利用しなかったぼくが今日から仕事に行くために使うようになるとは思わなかった。

「駅前のパン屋さん!朝限定のアジフライサンドが絶品だよ! 食べるしかないね!」と昨夜、彼女から言われた。普段利用する時間にはアジフライサンドなんてのは売ってないから少し楽しみだ。魚嫌いな彼女が絶品と言うんだから相当美味しいんだろうな。もしくはタルタルがしっかりとしたタルタルなんだろう。よくある安いチューブのではなく、粗く潰された茹で卵も入ってるジャパニーズスタイルのやつ。楽しみだ。

「でも、胃もたれしそうだね。唐揚げもキツいんだし」おすすめされた後に下げられた。30手前になって脂っこいのが苦手になってきているのはある。でも、カキフライやエビフライは好きだからやめられない。
「フライなら大丈夫だ」衣だし。と自分でもよくわからないことを言った。さすがにそれにはおしゃべりな彼女も返事はしなかった。
「食べれるよ…」と弱々しく言うと、彼女はニヤっと笑った。
「感想聞かせてね」うん… 明日絶対行かないと行けなくなったんだったな。と深く頷いた。

そんなことを思い出しながら歩いていると、団地群の道に入っていた。道を間違えたわけではないけど、普段は通らない道で新鮮だ。桜並木の道は春になると綺麗だけど、だいたい花見客で埋め尽くされていて、横見にするくらいで通ることはなかった道。案外広い歩道なんだ、ここにポストあったんだ、などこの辺の人からしたら当たり前のことがぼくには新鮮で真新しかった。帰ったら彼女に聞いてみよ。知ってた? って。ここ数年家から出ない日のほうが多かったから、彼女に話せるような話もなかった。最近話したのはスポンジボブの話と、仕事に着く話だった。

続く

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