雨と云えば
雨と云えば、
思い出すのは椎名誠の『雨がやんだら』。
珠玉のSF短篇である。
昔、国語のテストで『岳物語』の一部が出てきて、度肝を抜かれた。バレンタインデーの話だけれど、冒頭が、
ぽぴーん
であったと記憶している。その謎の響きは玄関のチャイムなのだが、昼に唐突に押されたチャイムの音をうまく表現しているなぁ、と今でもその国語のテストの衝撃を忘れないでいる。
その『岳物語』は、息子さんとの親子物語というノンフィクションエッセイの体をとっているらしいが、今風に言えば、かなり盛っているエッセイなのではないかと思う。というのも、後日談として息子さんからクレームがあったらしく、プライベートが晒されまくりの内容から無理もないのだけれども、それでもそのクレームさえも語ってしまうあたり、椎名誠というただのエッセイストではない策士の香りがするのだ。
ということを述べつつも、『岳物語』はそのテストで出てきた一部分しか読んだことがないのだけれど。
『雨がやんだら』という話は、紛れもなくSFではあるが、ところどころに現実的な描写があり、読んでいくうちにその世界に引き込まれてしまう。
現在と思われる浜辺で拾った日記を読み進めていくことでストーリーが展開されるのだが、その日記の内容がまさに梅雨!どころではない尋常でない雨の記録。雨が長い間降り続くのである。その期間はここでは忘却の彼方のため書かないが、家の二階に浸水し、ついには屋根に登るしかなくなるという凄まじさ。その間、隣近所の住人や日記の作者の行動がイロイロ書いてあるが、今にして思えばどのようにして日記を書いたのであろうか、特に後半。
雨が二、三日降り続くと 『雨がやんだら』を思い出しては、その世界よりマシと自分に言い聞かせて過ごす。そのマシの根拠には、天気予報により明日には明後日にはやむことを知っていたりするが、擬音が存在しない平凡な日常も重要かもしれない。椎名誠の作品にはオリジナルの擬音が多く登場する。SFであれば、架空の世界のために架空の虫などもたびたび登場する。その虫たちの気持ち悪さたるや、SFであることに安心するくらいである。『アドバード』という長篇のSFにも架空の虫が登場し、物語にさりげなく深みを持たせ、妙な現実的世界を構築している。作者にはそう聞こえるのであろう擬音の数々においても、読者には馴染みがなくても即座に親近感を持って迎え入れてしまう不思議な魅力がある。何せ、ピンポーン、じゃないんだもの。
椎名誠は、筒井康隆の次にはまった。
どちらのSFも甲乙つけがたく、好きである。
その両作者の背景を知るたびにますます好きになり、人生を彩ってくれた。
思春期の頃、筒井康隆を読み、椎名誠を読んでは、辛い現実から読んでいる間と読み終わってから少しの間は逃れられた。
読まずにはいられなかったあの頃。
そのことさえも雨の日に思い出す。