小さいお店で小さい私に注がれたこと
ああこれは、小さい自分のお店を開くことなんや。
お客さんに顔と名前覚えてもろて、信頼してもらわなあかん。
そのためには、お客さんに信頼してもらえる仕事せなあかんな。
春の夕暮れ。仕事帰りの私は、会社から駅までまっすぐの道を歩きながら、ふとそう思った。社会人になって数週間のことだった。
大学卒業後、私は大手予備校の出版部門で働いていた。仕事は予備校で使われる教科書、模擬試験、書店に並ぶ問題集などの編集業務。編集といっても大手出版社のそれとは違い、予備校の先生たちが原稿を書き、印刷屋さんに渡せるように原稿を整理し、校正して著者校してをくり返すのが主な仕事だった。
うちの部署はとにかく人員不足で忙しいんだよ。君もすぐに先輩たちと同じように仕事してもらわないといけないから。そのへん覚悟しといてね。
京都にある会社だったが、初めての直属上司である課長は東京の人だった。入社式翌日、聞き慣れない標準語でそう言われると、3割マシくらいで厳しく言われている気がした。
「この校正、〇〇先生に渡してきてくれる?」
「あ、先生の控室行くなら、△△先生にもこれ渡してきて」
「習うより慣れろ」的な職場では、編集校正仕事と同じく、ちょっとクセの強い予備校の先生たちにも慣れろと、先生たちのところへ行く用事を先輩たちはあえて私に頼んでいた。
「新人さんか」
「はい。英語科担当となりました〇〇です。よろしくお願いします」
おおそうか。頑張ってな。
と言ってくれる先生もいれば、「あ、はいはい」と愛想なく言う人もいた。
これは、言われたことやってるだけやったら、この人らと仕事していくのは難しそうやな。そやけど、どんなふうに働いていったらええんやろ?
1週間、2週間。週5日毎日会社に行くうちに、私の中から疑問がわいてきた。問い続け、ふっと出てきた答えがこれだった。
私は小さい店を開いたんや。ほんで、お客さんに信頼される店にならなあかんねんな。
私は先輩たちのお商売を観察してみた。無口で愛想はないが、その正確な仕事とどんな厄介な注文もさばく力量から、ベテラン講師や上司ににご贔屓さんが多い先輩。説明がわかりやすく面白く、でも真面目で仕事熱心。同期先輩後輩、講師、印刷会社の営業さんから人気だった先輩。
そして女性の先輩達。一足早く社会人になった女友達から、いかに同性の先輩がこわいか、キツイか、厳しいか散々聞かされびびっていた。先輩たちは私の2つ上から30代、40代と年齢層はばらばらだったが、みなさんさっぱりした明るいお人柄だった。そして、それぞれ常連さんがおられる人気のお店だった。時間が経つにつれ、「信頼されるお店になろう」という私を応援してくれるようになった。先輩達がさりげなく私のお店のことを話してくれていたおかげで、私は厳しいお客さん達からも、可愛がってもらえた。
課長は、そんな10店ほどの店をまとめ、困った時には相談に乗ってくれる商店街会長だった。気難しい講師や各予備校のトップからは絶大な信頼を得ていて、彼の店しか行かないというお客さんも多かった。私はこの会長から仕事についてたくさんのことを学び、たくさんお世話になった。
1年が過ぎる頃、馴染みのお客さんも増えた。商店街の先輩たちにも信頼してもらえるようになった。楽しく雑談できるようにもなった。そして4年後、たくさんのお客さんに可愛がってもろた小さいお店をたたんで、私はオーストラリアへ渡り、再び学生生活を送ることになった。
あの時なぜ「小さいお店開いたようなもんや」と、ふと思ったのか。ずっと不思議に思っていたが、ある風景を思い出した時に「これやったんか」とわかった。それは駅前商店街にあった祖父母とあーちゃん(祖母の義母妹)の小さなお店と小さい私だった。
昭和の始め駅前にできた小さな商店街。米屋さん、奈良漬け屋さん、散髪屋さんなど5店舗程度が並ぶだけ。そこに祖父母とあーちゃんのお店兼住居があった。パンや牛乳、ジュース、お菓子などを並べる、今のコンビニの1/5サイズくらいの小さな店だった。幼い頃、平日の朝から夜まで、私はここで両親が仕事から帰るのを待っていた。
主に店を切り盛りしていたのは、あーちゃんだった。朝は店の前でパンと牛乳で朝食を済ませて出勤する人たち。そのあとは市バスの運転手さんや学生さんたちが、昼食やおやつを買いに立ち寄っていた。明るくて社交的、今でいうところの「超コミュ強」あーちゃんは、毎日楽しそうに店に出て、お客さんとの雑談を楽しんでいた。時には学生さんの身の上相談にも乗っていたらしい。お店の楽しい空気感が好きで、私は茶の間でテレビ見るよりお店で過ごす方が好きだった。
店に出ることは少なく家事一切を仕切っていた祖母は、ちょっと大きな商店街へ行く時必ず私を連れていってくれた。祖母がいつも行くのは、昔からの付き合いのある小さな八百屋さんや豆腐屋さん。生きた鶏を仕入れて、捌いて売っていたかしわやさん。腰の曲がったおばあさんがリヤカー引いてやってくる漬物屋さん。祖母は店の大きさや構えは気にしていなかった。どの店も、目と舌の肥えた祖母が納得いく、ええもんを置いてはる、まじめなお店だった。買い物することで、祖母は応援の気持ちを伝えたかったのかもしれない。あーちゃんと違い会話をすることは少なかったが、祖母とお店の人たちに間にある信頼感を小さい私は感じとっていたのかもしれない。
お店やるんは楽しいで。お客さんとの何気ない雑談も楽しむねん。そうしてたら顔馴染みになって、常連さんになってくれはるんや。
小さくてもまじめなお商売してはる店が大事やで。お客さんは、ちゃんと見てはるさかいな。そうしてお互いちゃんと信頼し合うんやで。
言葉で伝えることはなかったが、祖母やあーちゃんのそばにいて、そんな教えがいつのまにか私の中の奥の方に注がれていたのだろう。社会人になった私は、あの時、その奥の方に注がれていたものの大切さに気がついたのだ。
そうして社会人になってから30年近くが過ぎた。子どもを育てながら、非正規の仕事をいくつも渡り歩き、いろんな場で小さなお店を開いてきた。7年前に専業主婦となり店は閉めていたが、3年ほど前から屋台のような店を開き始めている。自分よりうんと若い働く人たちのお腹を応援するお昼ごはんをつくる屋台。ひとりでなく、仲間と開くことも多くなった。
私のお店は、30年の間にずいぶん変わった。それでも、大切なことは変わらない。小さい私に注がれたものは、ずっとずっと私の中にある。
楽しそうに店にでるあーちゃん。
まじめなお商売をする小さいお店を応援し、信頼しあっていた祖母。
そんな二人が伝えてくれたこと。
これからも変わらずに、私が大切にしたいことだ。
***以下2021年5月3日追記***
Panasonicとnote公式「自分にとって大切なこと」コンテストにて、本noteが審査員特別賞(大丸拓郎さん)を受賞しました。
私を育ててくれた家族、小さなお店や思い出の商店街、社会人1年生の私を温かく見守り育ててくれた当時の上司と先輩方。記憶を手繰り寄せ当時を思い出し、温かな気持ちになりながら書いたこのnoteが賞をいただき、たくさんの人に読んでもらい、嬉しいです。ありがとうございました。