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早すぎた友達の定義付け

世の中には「友達」の定義がたくさんあります。
その方によって様々でしょう。

私の場合は、小学 2 年生のときの担任の先生によって定義付けされました。

今回はそのお話をしようと思います。

【 鈴木先生のエピソード】

日本人に多い名字なのでイニシャルじゃなくても大丈夫でしょう。
担任の先生は、比較的若い男性で、鈴木先生という方でした。

確か「学級活動」という時間だったと思います。
おそらく各クラスの担任の先生が趣向を凝らす時間だったのでしょう。

学級活動の時間が始まり、鈴木先生は私たちに問いを投げかけました。

「 " 友達 " ってどういう人のこと?」

小学 2 年生ですから、「◯◯くん!」と具体的な名前を挙げる子もいれば、「なかよしの人!」というふわっとした回答の子もいました。

それに対し、鈴木先生の回答は意外なものでした。

「友達っていうのはね、みんなが大人になったとする。
本当に困ったときに、黙って ¥1,000 くれる人だよ。」

教室の静けさを未だに覚えています。

【なんかずっと覚えてる話】

この話、大人になった今でもずっと覚えてる話なんですよね。
私はまず、「小学生に現実突きつけすぎじゃない?」とも思っています。笑
書いてて思い出したんですが、「けじめ」という言葉もこの鈴木先生に教えてもらった言葉でした。


しかしこの話、確かにそうだなとも思うのです。
もちろん、現金をくれればいいという話ではなくて。

「本当に困ってるときに黙って ¥1,000 くれるのが友達。」

私が思うに、この話には 3 ないし 4 つのポイントがあります。

1, 本当にツラい状況でも会える関係性
よほどの信頼がないと難しいと思いますし、そうなるように関係性を構築する必要があります。
世の中には、上り調子のときしか寄ってこない人もいますから。

2, 敢えて深く聞かない気遣い
根掘り葉掘り聞かない優しさというか。
「察する」の正しい使い方だと思います。

3, 気持ちだけじゃなく行動に落とし込む
行動に落とし込める方って少ないです。
だいたい後出しで「心配してたよ」とか言うんですよ。
落ち着いてから連絡するつもりの場合ももちろんありますけどね。

4 , 無償であること
これは意見が分かれるかも知れません。
私だったら、敢えて「貸し」という名目にしそうです。
※ただし、無期限
ただの言い方の問題ですね。

【ありがとう、鈴木先生】

小学 2 年生の終わりに引っ越して以来、鈴木先生とはお会いしていません。
鈴木先生のおかげで「友達」の定義付けはかなり早い段階でできたので感謝しています。

昨今では、「人間関係リセット症候群」とか「蛙化現象」とか、有りもしない病気のでっち上げが横行しています。
単に対人スキルが低い or 磨く気概もないだけのくせに、「ビョーキなのか、じゃあ仕方ないね」と言わせたがっているようにしか思えません。
また、とにかく浅い人間関係が好みなようで、たかだか SNS の「フォローする」をクリックしただけで友達だという方もいます。
あるいは、都合のいい言葉だけをくれる方を友達と言ってみたり。
本人がそれでいいなら……その人生を送った結果の機会損失を自己責任として受け入れるなら、それでもいいと思います。( 肯定する姿勢 )
私は絶対に嫌ですけど。

幸いなことに、鈴木先生が提唱した友達論によって、癖はあっても良識ある友達がたくさんいます。
きっと、本当に困ったときには何も言わずに ¥1,000 くれる方たちだと思いますし、私も彼ら彼女らが本当に困っていたら黙って手を差し伸べたいと思います。

以上
本日はこの辺で。

ありがとうございました!

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