神様のいる島
2023年のゴールデンウィークに沖縄を旅した。そのメインの目的のひとつは久高島を訪問することだった。
久高島とは
沖縄県南城市、本島の東南にある周囲8kmの離島。琉球王国の時代、国王が危険を冒して毎年礼拝に来るなど、琉球神話の最高の聖地とされる。
本島の東側、つまり日が出ずる方角にあり、琉球の創世神アマミキヨが降りてきて国づくりを始めたという伝説がある。
いまも古くからの信仰が根付き、観光開発もあまりされていない。
著者はかなり昔からこの島のことを気にしていた。前の宿でも、呼ばれたように思うなら行くべきだと言われた。そういう風に「呼ばれた」と思う人は多いらしい。
斎場御嶽(せーふぁーうたき)
那覇から西へ20km。久高島を臨む「斎場御嶽」に立ち寄る。
国王は毎年久高島に渡っていたが、海流が速くあまりにも危険なため、ここから拝むようになったという。
上陸
安座間港からフェリーで25分、久高島に上陸して、ガイドと合流する。
ガイドさんはアメリカ統治下のこの島に生まれた64歳男性。スピリチュアルなものを求めてこの島に来る人は多いけど(女性が多い)、そういうのは特に感じないという。しかし、島での信仰には敬意をちゃんと持っていた。その距離感はとても好感度高いなとおもった。
島の南側に人の住む集落があり一通りの公共施設などがあるが、北側には電気も通っておらず、重要な祭りの時は神様の通り道ということで立ち入り禁止になるという。
イシキ浜
琉球国王もここで礼拝したという。島の東側で日の出ずる方角。彼方に神々や生命の源である「ニライカナイ」があるとされている。
入り口に拝所があるが、言われないとそれとわからない。自然信仰なので、あまり自然に手を加えるのは悪いこととされているらしい。言われないとわからない聖所が多いので、久高島ではガイドを頼んだほうがいいと思います。
ガジュマルの樹
集落北部への道はほとんど舗装されておらず、周囲はジャングルに取り囲まれている。
その途中の大きいガジュマルの木の下で休憩できる。もう沖縄は夏の気温だったが、日が遮られて涼しい。
ハビャーン(カベール岬)
島の最北端に当たる岬。岩場の海岸は一切人手をつけられておらず、自然そのまま。この島は雑音が少ない。
フボー御嶽
島中央にある最高の聖所とされる森。一部の神女を除いて一切立ち入り禁止。
本土の神道などでは神職は男性が務めるが、沖縄の信仰では女性の方が神様に近いとされている。ここもかつて男子禁制ではあったが、女性なら入れたという。
ここは「陽」の御嶽だが、すぐ近くに「陰」の御嶽もあるそうで、そこは女性なら入って良いとこのこと。この島に惹かれてやってきた女性をそこに案内したところ、号泣しながら帰ってきたことがあるとか。
外間殿
重要な祭事が今も毎年行われる。岡本太郎もこの島を訪れていて、ここで見た絵から「太陽の塔」を制作する上での重要なインスピレーションを受けたという。
岡本太郎は男子禁制の御嶽に立ち入ったり、風葬している遺体を写真に収めたりしていたという。本当にデタラメをやっている…あの人は呪いには強いとは思いますが、普通の人は絶対マネしてはダメですよ。
カー(泉)
ガイドと解散して自由行動となったため島内を散策したら、儀式に使われている聖なる泉(カー)があった。やはり、仰々しくないので聖所だとわからない。
墓地
島の西側に墓地があった。かなり最近まで風葬や洗骨をしていたそうだが、本島にもよくある沖縄スタイルの墓だった。
自然信仰とは何か?
この島に来て感じたのは、「ノイズが少ない」ということ。人工物による影響を極力排除しようとしている。
でも、完全に自然に任せているわけではない。例えば、浜にゴミが一切落ちていない。訪れる人がポイ捨てしなくても、海岸には海外からゴミが流れ着いたりするのに(奥集落ではそうだった)、それをメンテナンスしている人がいる。
自然が人間よりも上であり、徹底して敬う姿勢がこの島を聖所たらしめており、それに惹かれて内地からも訪れる人が絶えないのではないか。
島も高齢化がすすみ、そういったことを行うのが困難になってきたので、最近では入島料を任意で徴収している。筆者もお気持ちを投げ銭してきたので志ある方は是非に。
唐突だが、神様や幽霊は本当にいるのか?そういう問いに対して、人間にはそれが分かり得ないことに意味があるとわたしは考えている。正体がよくわからないことが重要で、でもなにかがそこにいるという人々の合意そのものが、霊を霊たらしめているのではないか。
12年に一度の重要な神事「イザイホー」も、後継者不足で、1978年に行われたのが最後だという。いつまで、この力が保たれるのだろうか。
最後にもう一度、イシキ浜から東方、ニライカナイの方角を眺める。生者も死者も、そこに境目はなく、ただ波が砕ける音がするばかり。
わずか5時間の滞在ではあったが、確かに「呼ばれた」のかもしれない。出発する船から、小さく島の方を拝んだ。
また、呼ばれることがあれば訪れたいとおもう。