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創作物レビュー01|夢追う者にエールを ー 映画『数分間のエールを』


前書き

お久しぶりです。前回の投稿から半年ほど空いてしまいましたね。
人生についていろいろと悩んでいたマスミさんは、そんなときほど書いて自分を整理すればよいのに、グダグダと自分の中に閉じこもっていました。
そんな折に友人が連れ出してくれて映画を観に行ったので、レビュー記事を書いてみようと思います。
スタイルとしては、考察とか批評、客観的な分析をしようというのではなく、観ていて私が感じたことや考えたこと、私にとってこの作品はどういうものであったかをとりとめなく書いていく感じになるでしょう。
ネタバレも含まれますので、映画を観に行く予定のある人はお気を付けください
観に行った後にこの記事に戻ってきてくれると嬉しいです。

あらすじ

MV(ミュージックビデオ)制作に情熱を傾ける高校2年生の朝屋彼方は、ある雨の夜、路上ライブを行う女性シンガーの歌に心を打たれる。
その女性、織重夕が彼方の学校の新任英語教師として赴任してきたことをきっかけに、彼方は夕に彼女の曲のMVを作らせてほしいと懇願する。
「MVはその音楽を応援するものだ」という創作観をもつ彼方は、音楽の道を諦めようとする夕の音楽にエールを送るべくMVを完成させるが・・・。

本文

総評

この映画は恐らく創作活動をしている人とそうではない人、夢を持ったことのある人と持ったことのない人、観た人がどの属性にあるのかによって視聴後の感想が大きく違う作品であると思います。
創作活動をしたことが無く、夢も持ったことのない人にとってはこの作品は非常にありきたりなつまらない物語に思えるのではないでしょうか。

私は、この作品を観終わったとき、「今この時に、この人と観に行ったからこそ私の人生において大きな意味を持つ作品になった」と感じました。
「この時」というのは、「私自身が夢に向かうことに挫折しつつも諦めきれずにいるこの時」。
「この人」というのは、「卒業制作やポートフォリオの作成過程とその苦楽を見聞きしてきた、クリエイター(それもこの作品のテーマの一つとなっている3DCGデザイナー)としての職業人生を歩みだした親友」。

「この人」についてはプライバシーの問題もありますし、何より私が心に秘めておきたいのでこれくらいにしておいて、「この時」について語ると、この映画(と楽曲『未明』)は重く心に影を落としていた私の進路に関するわだかまりに向かいなおす機会を与えてくれて、まさに私の人生を変えた一作となりました。

私の個人的なことはまた記事を改めるとして、この記事の感想を書いていきましょう。

夢を諦めること ー 織重夕

夕はこの物語において「夢を追い始めたばかり」である彼方と対置された「夢を諦めてしまった」もう一人の主人公です。
学生時代は音楽活動に精力的に取り組み、大学の学校祭やライブハウスなどで自分の書いた歌を発表していた夕。
しかし、音楽で認められたいという夢は、恐らく親の言いつけもあって定めていた大学卒業までの時点では叶いませんでした。

私が映画を観ているときに考えていたことの一つは、何故彼女は教師という職業を選んだのかということでした。
高校生(子ども)と大人の接点を生むためという脚本上の事情もあるのでしょうし、後述するようにこの作品自体が伝えるメッセージの一つがここにあるのではないかと考えているのですが、それとは別に夕というキャラクターが心情が垣間見えるように私は感じました。

教師という職業は、自分よりも一回り二回り若い者たちを教え導く仕事です。
恐らく夕は、自分がもしも音楽の道で成功を収められなかった時、次の世代の夢を応援することで自分の夢を追うことの代償としようと意識的or無意識的に考えていたのではないでしょうか。
しかしながら、大学卒業時というのは年齢的にはまだ20代前半、自分の人生の中での夢の実現を諦めて他人の夢を応援する気持ちにはとてもじゃないけれどなれないのではないのかなと思います。
パンフレットの対談でも「夕は全然大人じゃない」という評がしばしば見られました。
夕は大人びたような振る舞いをして、大人びたような選択をしてきているけれども、本当はそこまで達観しきれてはいないようなところに人間らしさが感じられて私は好きです。

夢を諦めないことは本当に称揚すべきか?

映画を見終わったときに、この点は書いておきたいなと思った論点です。
私の意見は、それは良くも悪くも無邪気な意見であり夢を追うことを全肯定もできないと思いつつも、それでも夢を追う人を応援したいという私自身の純粋な気持ちは否定できないな、というものです。
残念ながら現代の日本は再挑戦に寛容な社会ではなく、夢を追うことは、全てを失うかもしれないという危険と紙一重です。
そのことを念頭に、この映画の結末については「無責任な扇動だ!」という意見を持つ人も多いと思います。
私の中の、「現実主義」=「無難」に塗りつぶされた生存戦略、に侵された部分は同じように感じましたが同時に私のより純粋な心は、それでもそんな賢しい意見には屈したくない、と感じました。

また、夢を追うことを応援したい!、というのがこの映画のメッセージですが、この映画は若者が現実的に夢を追うための処世術も提供していると思います。
それは夕が教師という資格を取得しているという設定です。
夕は最後、音楽活動を再開するために教師の仕事を辞めて彼方のいる高校を後にしていきます。
このように夢を追うために仕事を辞めるという選択をするのは、多くの場合には極めてリスクが高い行為です。
現代日本では何かと新卒就活や終身雇用といった「レール」を外れてしまった場合、経済的に不遇な立場に置かれてしまう事が多いと思います。
しかし、資格業(教師や医師を始めとする医療職、弁護士など)であれば多少世間のレールを外れたところで、後から職業に復帰することは比較的容易です。
例えばですが、大学で博士号を取ろうとする学生に教員免許を取っておくことを勧める大学教員を見たことがありますし、映画監督や小説家になりたいから医師になったという人も世の中にはいます。
この映画の制作者は、夢を追う若者の夢を応援すると共に、リスクヘッジの方法もセットで伝えようとしていたのではないかなと思いました。

おわりに

この映画は、私にとって大きな意味を持つものになりました。
夢を追うか追わないかという選択は人にもよるのかもしれませんが、人生において極めて大きな選択の一つと言えるでしょう。
夕が一度は夢を諦めた後に偶然彼方に出会い、再び音楽の道を歩みだしたように、夢を一度諦めたとしても、なにかのきっかけで再びまた夢に向かって歩みだせる時が来るかもしれません。
「ああしたい、こうなりたい」といった理想を手放さず、偶然に身を開いておくことで物事は良い方向に回転しだすことでしょう。

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