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玄関に入ると、とりわけそれがバイトからの帰りだとなおさらいつも困ってしまう。夜が更け始めたというのもあるだろうし、それまではただ真っ直ぐ帰宅することだけが正しくて、それだけを考えていられたのが、玄関に入ることで完遂されると何をしていいのか分からなくなるからだ。
重たい枷であるアクセサリーを外そうかその前に手洗いうがいを済ませようか、それとも本能みたいなものに忠実になってベッドに倒れ込もうか。居酒屋バイトのいいところは休憩で賄いが食べられて、こんなときの選択肢を減らせることだ。
靴を脱いで框を上がる。外よりマシとはいえ、冷えて暗いのが身にまとわりつくように感じられた。両親も妹もずっと前に寝入っているだろうから。
リビングに入り電気をつけて電気ストーヴのスイッチをオンにする。四人家族にぴったりな広いリビングを独り占めしてストーヴまで使うなんてとんだ贅沢だと思いながら、だからといって躊躇はしないんだけど。ファスナーが閉まりきっていないリュックに突っ込んだコンビニのレジ袋をテーブルの上に、中身をそのままに置く。私の右の席には妹のドリルたちが堆く積まれていて、私なんかよりずっと偉いなといつもながら思う。今度どっか美味しいお店にでも連れてってあげよう。
どうしても目の前のソファに倒れたいとは思わないから、それほど疲れてないんだろう。それなら、先にお風呂に入ってしまおう。
シフト表はあくまで予報に過ぎないと知っていて期待をした。今日はその予報に見事に裏切られて村上さんは欠勤だったから、ちょっとだけ気合いを入れた化粧も宙に浮いてしまっていた。一度重力をなくしたらただ気持ち悪い、だけが残るもんね。それを早く洗い落としたい。
熱い湯で完全にとまではいかないけど疲れを流して頭にタオルを巻きつけて保湿を済ませる。洗面所は家の中で一番生活感があるから安心する。私のために用意された部屋よりも。リビングへ行こうとドアを開くと、出待ちしていた廊下の冷気がおびただしく入り込んでくる。でもそんなのに構わない。むしろ火照った身体に気持ちがよかった。
リビングでは電気ストーヴがしっかり職務を全うしていた。ちょっと熱いけど、でも多分ちょうど良くなる。テーブルに置いたレジ袋からひんやりとするカルピス味のほろ酔いと、お菓子のベビースターラーメンを取り出し、背面からソファに沈む。最初は疲れたことのご褒美としてたまに買っていたのが、近頃ではバイト後に必ずコンビニに寄ってしまっていた。こういうのも中毒っていうのかなあ。
プルタブを開いて気持ちいいオトを聞く。ひとあおりして、脚が間違っても当たらないように配慮して床に置く。まるでプロみたいに熟練した手つきでスマホを開く。はあ、どれから返信しようかな。誰から来てるのかなんて大体分かってるんだけど。
同じクラスの女子四人グループ、個別の女の子たち、また別の三人グループ、ベビースターラーメン一つかみ、男女混合六人グループ、ほろよい一口、それから、あからさまに私を狙ってる男たち数人。でも赤いマルのなかの数字はなかなか消えてくれない。
LINEからツイッターに移って他愛ないTLを遡る。あ、今日水曜日か。更新じゃん。スレッドをタップして、それにぶら下がる前回の話から読み始める。
ドラマとか映画って、面白いけどやっぱり身近じゃない。それならよくあるワンシーンだとしてもツイッターとかインスタで投稿されてる恋愛のマンガの方が私は好き。想像しやすいし基本現実が舞台だから。そういうのを受けて、生活のモチベーションも上がっていくからね。
燃料が注がれてモーターが回転を始めるみたいに私の恋は加速し、やがて推進力になる。それが募れば募るほど現実でのエネルギーになる。恋に恋してたって、悪いことじゃないと思う。だってそれも恋だから。
クラス内や社内、さらにはバイト内までのあらゆるシチュエーションに共感する。それらと同じように、村上さんがいて私の毎日は色を持つ、気がする。
恋愛マンガに注視しているところにポンッと「一件の新着メッセージ」がバナーで通知される。さっきの男たちのうちの誰かかな、即レスとか暇なの? それでも念のため、ツイッターを閉じてLINEに移る。こういう通知は逐一確認した方が良いってことは、私が二十年足らずで身につけた処世術だ。え、という言葉を飲み込んだ代わりに、自分でも嫌気がさすようなある種臭さを覚えながら目を大きくしてしまう。一日ぶりの、村上さんからのメッセージだった。何となくソファに横になる。
衝動で既読をつけてしまわないようにそっと長押しする。
「あー、俺もそうかも」
「わかる。店長そういうとこあるよな」
「マジ? じゃあ今度観に行く?」
三つの話を並行してやりとりしてたんだった。私なんて言ったっけ、と不安になって焦れったさから既読をつけて必要以上に上にスクロールする。そんなことをしながらも、最後の一つの村上さんの言葉に胸がひどく高鳴っていることは決して無視できなかった。
一つ目は高校のときと比べて大学で友人が少ないこと。二つ目はテキトーに話題作りしたバイト先の愚痴。三つ目は、勤務中にどこからか湧いてきて、帰ってからも村上さんからLINEで映画のことだけどさ、と続けてくれたこの間上映したばかりの映画の話。
前の二つなんてこの際もうどうだってよかった。村上さんは四年生で春を迎えないままに辞めてしまうから私には時間がなくてこの頃ちょっと焦ってきて――やっと初めてのデートができる。楽しみで嬉しいというのももちろんあるけど、それよりもほっと安心していた。クリスマスは諦めてたけど、もしかしたら、なんてもう浮ついてしまう。
返事はもちろんOK。でもどうしよう。画面の一番上部はふと目を離したら二時になりそうだった。こんな時間にまだ起きてんの、と幻滅されるかもしれない。それともかえって親近感とか?
時間にしては短くても、不意に上がってくる口角を気にしながらゆっくり逡巡したのち、返信は朝にすることにした。明日は二限だけどさすがにそろそろ寝なきゃだし、リスクはなるべく避けたい。村上さんはどっちかというと真面目な方だし。それでも気になってどうしても寝られなかったら、「なんか起きちゃいました笑」とか言えばいい。
心の底から元気が溢れて上機嫌になった私は、今日のバイトの疲れも嫌なこともからもさっぱり分離して、足下の空き缶とベビースターラーメンが入っていたものを片して、そのすがらもため息一つなく歯磨きとドライヤーをしに洗面所にいく。この浮つきは危険だとちゃんと認識しているから廊下で軽く冷ましたいのと、早くこの高鳴りをベッドのなかでじっと噛みしめたい。おやすみなさい。
あーーーさっむい。冬の空気は好きだけど、こう風が強いと身体を震わせることしかできなくなる。寒いっていうのも自己防衛本能だったりするのかな、やっぱり。五限が終わってわらわらと出て行く人だかりを横目に、門の手前で立ち止まっているから身体の熱はみるみるうちに奪われていく。そのうち熱だけじゃなくて……は妄想だよね。
流れる人のなかを目で探すのにも飽きてスマホをいじっていると、どん、と背中に衝撃を与えられた。来た。
「おつかれ!」
「おつかれー」
私も振り向いておつかれ、と返事をする。
「あれ美咲は?」
「ああ、ちょっと遅れるから先行っててだってさ」
ふーん、とマフラーを気にしながら加奈が言う。私も明日からマフラーしないとな。いつの間にか冬は真っただ中だった。
「予約してるし行っちゃお」
と千紗が歩き出す。加奈と私はそれに続く。この間彼氏にもらったと自慢されたマフラーをしきりに直す加奈を愛しく思う。恋っていいよなあ。私も好きなひとから何でもいいからプレゼントされたい。
鍋の水蒸気と、美咲と千紗が吐く白い煙が混ざり合って上昇し、天井のどこかに吸い込まれる。一通りそれぞれが特に話したいことも過ぎて、自分たちの卓以外の音も耳に入ってくる。私の背後の席ではあまり上手くいってない合コンが行われている。
「愛理は? バイト先の先輩だっけ?」
私の恋バナに行き着くのは当然だった。なぜなら私だけいま彼氏がいないからだ。みんな可愛いからそれまで含めて当然なんだけど。
お待たせしましたー、と間の抜けた声が横から入る。私のラムネハイを適当なところに置いて、彼は去っていく。
「まあ、うん。……映画いくことになった」
「え!」と加奈はお酒で赤くなった顔を隠さず大げさに驚いた。それに負けないように後ろでも空回った笑い声が上がる。本人も無意識なその大声は加奈がよくやることで咎めるつもりもないけど、その度私はいつも一歩自意識の外側に出る。授業中でもなければここは治安がいいとは言えない居酒屋なのだから何の問題もないと理解しているのに。
「もうこれやばいじゃん」
美咲が「ウィンストンのキャスター」と私に覚えさせた煙草の煙を吐きながら場を勢いづかせる。女の子のそういう姿はかっこいいと思ってしまう。美咲だとさらにかっこいいと思う。こちらの顔色は全く変化がない。遅れたけど加奈よりずっとたくさん飲んでいるのに。
「ほんとに彼女いないんだよね?」千紗は冷静に私に念を押す。
「うん、そう言ってた」
「でもなー、煙草がなー」
「それはほんとにそう」
「マジありえねえってそんな男!」と、これは別の席からの雑音か。耳を四人の空間に閉鎖させる。
「自分吸うクセに女子に吸ってほしくないとかおかしくない?」
「とんだアナクロ男だよ」
と美咲が言い、私たちは堪えきれなくて笑いだす。この変な言い回し、最初は絶対素だったけど、今ではわざとやって笑いを取りにきている。最初はほんとにこの言葉遣いに笑っていいのかさえ分からなくて困ってたけど。
「いやまあ、私吸う人じゃないからね」
「そういうやつに限ってDVだよ」と私の声が彼女たちに反響しないまま笑顔は膨らんでいく。美咲にはこういうところがあるのも知ってるけど。
「でもいい感じで良かった」と千紗が収めてくれた。うん、ありがと、と私は千紗に言う。
明らかに、私は昨晩から舞い上がっていた。それに今日ここでその話をするのが楽しみで仕方なかった。恋をよっぽど楽しんでいるのはやっぱり女の子だ。それがあるだけで色んなことが楽しくなる。
ああでも大丈夫かな。いつの間にか着地点を忘れて飛行していそうで、先を考えると怖くなる。ちょっと久しぶりの恋だからかな。上がり続けることなんて不可能だって分かってるのに。でも成功の自信があった。それも何となくでしかないんだけど。はやく村上さんに会いたい。
いいことってこんなに立て続けに起こっていいものなの? なんて大真面目に考えてしまうくらい、私は舞い上がっている。もともとシフト表が三人で大変かもとか思っていたら、秋山さんが欠勤らしい。つまり、バイトは私と村上さんの二人だけだった。
打刻をしてホールに入る。チェーンでなく小さな個人経営だから、たまに開店しないうちから店の前で待っている人がいることがある。今日は二人の一組みたいだ。有名なわけじゃなくて、物好きなリピーターが割と多いのだ。バイトの身としては気楽でいい。村上さんは私より先にいて細々とした補充をしていた。
「おはようございます」
「ああ、おう」ちらっと見てくれた横顔は今日もかっこいい。特別イケメンというのではなくて、男らしくて無骨な感じの顔。そしてすらっと伸びる身体。
「今日キツそうですよね」
「だなー。でも石井がいるから大丈夫かな」
村上さんは絶対分かっててこんなことを言う。ただ石井と名前を呼んでくれたのが嬉しかった。正直、キツそうだなーとはそこまで思っていない。それよりも二人だけでラッキー、の方がずっと大きかった。他のバイトの人を気にせず村上さんとだけ話していられるなんて、そうそうないし。だから開店待ちなんかしている人たちには舌打ちでもしてやりたかった。こんな日くらい閑古鳥が鳴けばいいのに。
だけどやっぱりそうはいかず必死になってホールを回転させていたら、あっという間にラストオーダーを取る頃だった。いつもより速く時間を過ごすと、気づいたときにどっと疲れが押し寄せる。そんなに村上さんと話せなかったし、回り回って損をした気がする。
彼女たちが来店したとき、私は別のことをしていたんだと思う。右奥の席にいるその三人組に気づいたのはファーストドリンクを届けるときだった。二十代後半の女性一人とそれに大体近い年齢だと見える男性二人。男の方は揃ってアイコスを吸っていた。アイコスの臭いってどうも苦手。普通の紙のやつの方がずっといい。
お待たせ致しましたと言って生を三つテーブルに置こうとかがむと女性のいる方から意図的な視線を感じる。視線を送っていると気づかせるような直線的視線。生三つです、と見上げたときには彼女は別なところを見ていた。赤と白のバイカラーの箱から一本、煙草を抜き取って咥え、やたらと目につくピンクの安っぽいライターで彼女は火を点けた。その一連の動作はあまりに澱みがなくて、それをしっかり目に映したことは中学生のときにR15を観たときみたいな背徳感を伴った。
もう一方の男性二人の片方が注文いいですかと声を掛けてくれたことでふっと我に返ることができた。無意識に蓋をしていた雑音がいっぺんに耳に入ってきて痛くなった。注文を一通り取ったあとにラストオーダーだったことを思い出してそれを言うと、もう二品追加された。かしこまりましたと去ろうとしたときに彼女と目が合った。でも合わせていることがどうしてか苦になって私から反らした。文字通り居たたまれなくなった。
再び彼女たちを見たのは会計を済ませて出て行く姿だった。疲れたから早く帰りたくて速やかにあの三人組がいたテーブルを片しに向かうと、ピンクのライターが置かれたままだった。忘れ物、のはずなのにそれは忘れられた感じがしなかった。一番しっくりくるのはお留守番。中の液体が空どころか半分も減っていないからかもしれない。とにかくもしかしたら取りに戻ってくるかもしれないと思ってカウンターに置いておくことにした。
結局お客を全員帰して暖簾まで回収してもあの女性が戻ってくることはなかった。コンビニでよく見るようなタイプだし、戻る面倒よりも新調を選んだのだろう。どうしようかなと右手で触っていた。あ、火を点けるのって案外力が要るんだ。
「それ、どうしたの?」
村上さんが通り際に声を掛けてくれた。
「ああ、いや、忘れ物みたいです」
ふーんと言いつつ村上さんは寄ってくる。
「ピンクか、なんか石井に似合うな」
「え? あ、ありがとうございます」
嬉しい、というか照れてしまう。でもライターで? 煙草は吸ってほしくないんだよねーとか言ってたくせに。まあでも、記念に貰っておこうかな。村上さんが向こうへ行ったのを確認して、その品のないライターをズボンのポケットに滑らせた。
上がっていいよーと言われ、更衣室へ向かう。くたくたに疲れたし、今日のコンビニはちょっと贅沢しよう。ホールのだんだんと落ちていく照明にほっとする。何とか乗り切ったんだ。
ポケットのライターを忘れずに鞄に移したはいいものの、でも使いようがないなあ、まあ記念だしいっかとぼんやりしながら更衣室を出ると、ちょうど村上さんも出てきた。
「そっか、今日二人ですもんね」とさりげなく言ってみる。
「ああ、一緒に駅まで行くか」
やった! 私が話を振ったとはいえ、やっぱり村上さんから言ってくれるのが嬉しい。これもご褒美だろうな、なんて都合良く捉えてみる。
おつかれさまでーすをそれぞれの人に言いながら出ていく。店に面した細い路地では風がなく、でもとても寒くて、冬を堪能している気になった。このまま駅じゃないところに行きたかった。こんな日に「好きなひと」と一緒に歩けることがたまらなく嬉しい。
「冷えるなー」
「村上さんマフラーしてないじゃないですか」
「いやーまだ耐えれると思って」
「風邪引いちゃいますよ」
「石井は完全防備だな」
「冬は好きなんですけどね。寒いのは嫌いです」
「なんだよそれ」
「ええー分かんないですか?」
すっかり夜になった街を他愛のない話をしながら帰ることが、なんだか恋人を先取りしているみたいで楽しい。付き合ってたらそのコートの右ポケットに私の左手も突っ込んだのに。腕を絡ませて寄りかかることだってできたのに。
「シュン!」
私たちの右方から村上さんの下の名前を呼ぶ、女の声がした。
咄嗟に、反射ぐらいの速度で嫌な予感がして、同じ名前でびっくりしましたねとか言おうとする。でもそれを制される俊敏さで村上さんが声のした方に振り向いた。なんでそんな慌てたみたいなの? 嘘。
「あ、あー、キョウコ」
私も自然さを失わないためにそっちを向くと、駅前のベンチから立ち上がったであろう女が駆け寄ってくる。嫌だ。あの人がたどり着く前に二人で駅に入りたい。
「お疲れっ」
女はわざとらしく私を見ないで、村上さんに話しかけた。その勢いはあの私の苦手なアイコスの臭いを運ぶ。煙草の臭い?
「来るなら来るって言ってよ」
村上さんは明らかに動揺してる。動揺してるってことは、つまり、そういうこと?
「あはは、サプライズだもん」
急すぎ、と村上さんが弱々しく呟く。私の方を一切見なくなった。早く去りたい。こんなところに居たくない。こんな私が入り込めないひどく閉鎖的な世界には。
「あ、じゃあ、私失礼しますね」
ああおつかれ、と言った村上さんはまだ別なところを見ていた。最っ低。
早足で改札を通過し、タイミングよく来た電車に駆け乗った。ドアの傍に立ってるおじさんに睨まれた気がしたけどそれどころじゃなかった。考え始めたらダメだと知っていた。このまま無心になって見知らぬ場所へ行ってしまいたいと思った。ガラガラの席にも座らない。今の自分の感情が怒りか悲しみか、それとも悔しいのか、全然分からない。ただその分からないのが堰を切りそうなことだけは分かる。
三駅過ぎて下車したのち、また早足で階段を下って改札を抜ける。考えたくない。その勢いのまま駅から一番近いいつものローソンに入り、適当に目についたものを買って出る。でもそのまま帰る気になれなかった。いつもどおりの帰宅をしていつものように困惑を相手にできる自信がなかった。
早足のままでどこか、どこかと探した。住宅街の雰囲気からすこし浮いた木々の群生が目についた。そういえばこの辺公園あったっけ。
外灯は隅の方ばかりで、中心にはただ一本だけあった。昔はよく来てたけど、こんな夜遅くに訪れたのは多分初めてだった。
さく、さく、と砂の音だけがこの空間に渡る。中心の外灯の足下にあるベンチまで行き、すとんと腰を下ろした。動かないとやっぱり風が吹いてるんだと認識する。それは頬を掠めていくから、幽体離脱みたいに私の中身だけ攫ってくれるような気がした。
静かだ。こんな寂しい夜に私は取り残された。私は何も悪いことしてないのに。ただあの男が最低でクズで……とにかく最低だっただけなのに。すっかり騙されてたんだ。ああ悔しくて泣きそうになる。そしてあんな男のせいで泣きそうになってるんだと思うと余計に悔しくて、ついに感情は堰を切ってしまった。声なんか出ない。でも堪えようとすればするほど余計に水勢が増すから、もう抗うのを止めた。いけると確信してたから堤防なんて作ってなかったんだもん。はあ、ちゃんと好きだったのになあ。
濡れた頬にも風は容赦なく吹きつけるから、冷えていく身体と相まって震えそうだ。完全防備でもさすがに厳しい。
座ってからずっと左手で持ったままのレジ袋から、赤と白のバイカラーの箱を取り出す。開けると銀色の紙があって、かじかんできた指で不器用になりながら上の方を開いた。一本抜き取ろうとしてもぎっちり詰められていてなかなか上手くいかない。取り出せた頃には外側の箱もちょっと歪んでしまっていた。咥えてみる。口紅が落ちそうで気になった。
バッグからピンクのライターを引っぱり出して、点火を試みる。頑張って押し込んでも風ですぐ消された。見よう見まねで手を使って掩ってみるも、今度は煙草に火が移らない。だんだん疲れてきて息が荒くなって、ああもうとか思っていたら点いた。
急に火が移って加減も分からず勢いで一口吸ったから想像以上に喉にくる。むせそうになったけどすんでのところで耐えた。咳なんかしたら負け。今度はゆっくりと。苦い。辛い。でも、こんなものか。
こんなものだったんだ、と勢いをつけて煙を吐く。白色(はくしょく)だったところに口紅がべったり乗っている。構わず咥える。
薄々分かっていたことだ。恋を失っても、色は失われなかった。別に失恋は初めてじゃないし、もっと大泣きしたことだってある。ただ、予兆がなかったから喪失感がある。すごく寂しい。それは何を喪失したのか分からないから寂しいんだ、と決着しようとしても、感情と理性は相性が悪いから。
吸って、吐く。呼吸に色がつく。それは見る間もなく空気と混じり合い夜に紛れた。嘘を吐かれて振り回されて、私ほんと惨めだなと思うとちょっと笑えた。恋はもうゴメンとは言わないけど、こんな風になるのは馬鹿らしいよね。ちょっと休憩しよう。それまではしばらく煙草でも吸っていようと、何となく決めた。