3.健全で健康な日々
人為的な昏さにカーテンから漏れる光がななめに射しているということは、おそらく日中なのだろう。そのかすかな陽光さえ煩わしかった。部屋はしんとつめたく、毛布から抜き出る足の先が寒気をちらつかせる。のしかかる毛布の重さもあいまって、また寝入りたいようなだるさが首から下を支配しているのだが、割れるような頭痛があまりにはげしく、それを緩和させるにはベッドから降りなければいけなかった。
フローリングにそうっと足をつけると、投げ出されていた足先で感じていたよりもさらにつめたく感じて、瞬時に身体のしんまでそれは伝達した。寝ぼけ眼をこらすと、空になって転がされた缶がそこかしこに散乱していた。頭痛のせいで平衡感覚が不安定なまま、なんとか道を見出して寝室を出て、リビングに入り、壁際までたどりつく。たしかこの辺りに――昨日の残りがあるはずだった。
立っているのがしんどくて、からだを安定させようとしゃがみこむ。横転したいくつもの空き缶に混じっている、すっと背筋をのばして佇む一缶を両手で掴み、口元に運ぶ。半分くらいあるだろうと見当をつけていたそれはほんのちょっとしか残っていなくて、あっという間に空き缶になった。しかたないな、と諦めながらそのすぐそばにある段ボールを思いきり引き寄せて、未開栓の一缶をよく見えないまま手の感覚だけを頼りに掴み取る。ほとんどシステム化された手際でプルトップを持ちあげ、すぐに流しこむ。ぬるくおいしくもないそれは、のどを越すごとに頭痛を和らげていってくれる。
あたまとからだが軽くなっていくにつれて、閉じているのか開いているのかも分からなかった眼はすこしずつ冴え始め、缶のひとつひとつをはっきりと見分けられるようになってくる。そのおかげでローテーブルの下に水色のライターがあるのを見つけた。台所には先々週?くらいにタエが「酒よりもまだタバコを吸っている方がまだマシよ」と持ってきたハイライトのメンソールがあるはずだった。
右手にライター、左手に開けたばかりの缶を持って台所へと立ちあがる。そこまでの経路はこの家の一番のスラムで、もはや道がなく、足を引きずって空き缶たちを蹴りながら進んだ。
長らく料理をしていない調理台には、大きめのビニール袋たちがほぼ持ちこまれた状態のまま並んであり、一番手前の袋に透けて緑のパッケージが見えた。そのなかに手を入れて無雑作に一箱を掴み、酒を置いて包装をとく。上の銀紙をさらに雑にちぎり、伸びすぎた爪でぎちぎちに詰められたなかから一本をつまみ上げ、口にくわえ、火をつける。つけてから、昨日開けたばかりの一箱が目の前にあるのを見つけた。でもうまく昨日を思い出せなかった。起き抜けの一本は、私が明日酒を断つための一歩だった。
のどに小さな痛みを感じてから、ふーっと煙を吐く。その白はどこにも流されることなく、吹かれた方へと空気抵抗を受けながらもゆったりと前進し、やがて不可視になった。その煙を眺めていたら換気扇をつけるのを思い出して、あわてて「強」のスイッチを押した。いつ夫が帰ってきてもいいように――久しぶりに帰ってきてタバコ臭いのは嫌だろうから。
灰をシンクに落とし、口渇のままに水道水を流して口を近づけ、こぼしながら飲む。口のまわりがだらしなく濡れた。ひどい味だった。まだ今日ははじまったばかりだから、とりあえず酒を口に入れる。とりあえず、の口直し。
タバコの味に飽きてしまい、まだ十分に吸えるのを、さっき水が流れたばかりのところに押しつける。ジュッというこの音は、けっこう好きだった。また足が疲れてきたのでローテーブルの方に戻ろうと缶を掴みなおすと、曲名を思い出せない固定電話の呼び出し音が鳴った。その古い電子音はやかましく、部屋中をひっかき回すように響いた。その耳障りは私の神経を逆なでするから、いつも私をいら立たせていた。それが完全に怒りになってしまう前に、リビングに戻ってすぐに受話器を取る。スマホはその辺にあるはずだけれど、いつか部屋の隅で画面が割れて落ちていた。どうやら酔いのひどかったときに投げてしまったらしい。
「もしもし?」
活発な発声から、タエだと判る。とはいってもこの家に電話をかけてくるような人は、そもそもタエしかいない。
「……はい」
「よかった。起きてたのね」
生きてたのね、と空耳したけれど、意図としてはほとんど同じようなものだった。うん、今、と返事をする。タエの背後からは子どもの声のような、あるいは生活音のような、雑多な音がひっきりなしに聞こえる。
「そう。目覚めはどう?」
「ええ、最高よ」
「あっそう。来週には時間がつくれるだろうから。それまで耐えてなさいよ。――あ、そうそう、あなた、たまには掃除機でもかけてみたら? 掃除機って結構いいのよ。楽なわりに達成感があるっていうか」
掃除機? そんなのをかけられる状態の部屋ではないことはタエも知っているはずだった。呆れて黙っていると、
「ほら、使ってない部屋もあるでしょ?」とタエが言う。「あそこならホコリも見えるくらいこんもりたまってるはずよ」
「あの部屋はダメ。夫婦の間にも、プライバシーがあるんだから」
「……でも、掃除ってホントにいいのよ。昨日もかけてたんだけど――」
タエの声はまっすぐ耳に入るような声質で、電話ではなおさらそれがきつかった。耳からすこし離して、左手にあった酒を飲む。ふと我に返り、暑くもないのに尋常じゃない発汗に気づいた。でも、もう慣れているのだ。放っておけば、いつの間にか収まるものだから。
私とタエは大学の同期で、当時はなぜか私に引け目を感じているようだった。よく公園や誰かの家で飲んでいたが、私の言うことすべてにいつも賛成をし、指図したことは一度だってなかった。それは私が結婚してからも続いた。ナナコはすごいなあ、がタエの口癖でもあった。それからタエも結婚して、出産をして、私がだんだんゆがみ始めたくらいから、この関係性に変調が起きた。私に尽くしてくれているのは変わりないが、それがはたして純粋に私のため、という感じはあまりしなくなっていた。
「それで? いまは日にどれくらい飲んでるの」
掃除機の話は終わったらしく、受話器を耳に当てなおす。
「まだ今日は一本よ」
「じゃあ昨日は?」
「……十はいってない」はず。
「あ。そ。減らすのは難しくても、増やしちゃダメだからね」
「わかってる」
じゃあ、来週行くから、とタエは通話を切った。
タエとのつながりが断たれた途端、部屋がひろく、身にあまるように感じられた。とても私がひとりで扱うには大きすぎる。――酒が足りないのだ。残りをひと息にあおり、平静を保とうと試みる。空き缶になったそれを立ったまま手から滑らせる。床にぶつかって落ち、カラカラと転がる音は、しばらくしないうちにやんだ。
もう一度段ボールのもとへいき、次の一本を確保する。また気がおかしくなってしまったときのための、予防線として。
でも、大丈夫。明日、目が覚めたら酒のことなんて忘れて、そして、健全で健康な日々がはじまるのだ。まずはゴミを片付けて、そう、掃除機もかけよう。ひさびさに熱いお風呂に入ろう。そしてAmazonに頼るのではなく外へ買い物に出て、しっかりと太陽を浴びよう。いつ夫が帰ってきてもいいように。慣れない海外からくたびれて帰ってきた夫を出迎えて、あたたかい夕食を――ここのところ寒さが厳しくなってきているからシチューでも――つくり、私はひとくちだけお酒を飲もう。それから久々のセックスをする――でも、不慣れな海外で疲れているから、すぐに眠ってしまうかもしれない。それなら明日でもいい。不慣れな――?
不慣れな海外に、夫はいつから行っていたっけ。昨日じゃない。一昨日でもない。昨日? 今日? 明日? 明日って……何時? ダメだ、酒がきれてきた。眼が痛い。ぬるい水滴が、重力にしたがって顔の上を縦に流れる。私は私のからだをうまく制御できない。
「あした」
もはや考えているだけではまとまらないから、声に出してみる。思わずふるえていて、びっくりする。この声はほんとうに私の感情なのだろうか。
「あした」
ここは、私のいるところは、
「いえ」
家? だれの? 私の? 私はここに住んでいるの?
カレンダーを見る。私はそのカレンダーの位置を知っている。そのカレンダーは、今年のものではない。昨年? 一昨年? 酒を入れる。
時計を見る。時計は――そう、あそこ。台所からも見えるようにと設置したのだった。針は動いていない。針が止まっていることは知っていたのだから、タエに時間を訊くんだった。酒を入れる。
カーテンから漏れていた光はいつの間にかひどく弱まっていた。はやく明日になってしまえばいいのに。明日さえ、明日さえ来れば、私は変われるのに。誰もが明日に向かって生きているのに、どうして今日を生きなければいけないのだろう。明日はいつだって、誰の明日だって、かがやいているのだ。だから、明日を願わない人間なんて、どこにいるというの?
夫の足音は、着々とこの家に近づいている。この家の玄関にたどりつく前に、私は明日にいなくてはならないのに。とにかく眠ってしまうのが一番だ。だって、明けない夜などないのだから。目が覚めればかならず、明日になっているのだから。