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日記⑫(2020.03.16)

 三十分ほど遅れます、と井の頭さんからのLINEが報せたから、目についたエクセルシオールでコーヒーを買い、喫煙ブースに入ったり昨日買ったばかりの『掃除婦のための手引き書』を開いたりして過ごしていた。風が強いみたいですよ、と教えてもらったから知ってはいたものの、まさに風が吹きはじめた頃で、これから歩きに行くんだと思うとちょっと戦いた。

 御茶の水橋口で合流した。井の頭さんは強風と知っていながらもすっかり春の服で、ぼくはコートにスヌードと真冬の服で、並んだらちぐはぐさが目につきそうだと想像した。通りは流行する感染症のせいかちょうどいいくらいの人通りで、冷たい風に震えながら靖国通りに向かって歩き出した。日なたはまだ暖かかった。どのくらい久しぶりだったか、を数え合う。途中井の頭さんの帽子が飛ばされそうになる。

 お互いそこまで古書店を調べていなかった。こっちかも、を繰り返してすずらん通りに入り、目についた古書店を冷やかしていった。美術書を専門としたところばかりで、「普通の」がなかなかないですね、を口々に言う。それでも、いつか見つけられるだろうと安心していたのかゆっくりと回った。途中、詩集の多い店を見つけて須賀敦子の『霧のむこうに住みたい』を三百円で買う。『ユリシーズ』はなかなか見つけられなかった。

 すずらん通りの終わりを自然に右へ折れ、すると昨晩「神保町 喫茶店」で検索して一番上にあった「さぼうる2」を見つけた。あ、あれ、多分有名なとこですよね。え? あ! 行きたいと思ってたんです!

 食事をとるつもりはなかったので隣の(喫煙可の)「さぼうる」に入った。秘密基地みたいに薄暗いなかで色んなものがぎゅうぎゅう詰めにされていて、中二階に案内される。椅子が向かいに一つずつしかない席だったけど、隣の二倍広い席がたまたま空いたので移動させてもらった。

 ブレンドコーヒー二つとバタートーストを注文して、急な寒暖差にまごつきながら近況の話をして、コーヒーたちが運ばれてから貸し合った本を返し合い、新たに貸そうと持ってきた本をプレゼンし合った。喫煙してもいいですか、と断りやすいように訊くと、私も吸うので大丈夫ですと言ってくれたので助かった。井の頭さんはアークロイヤルを吸い、ぼくは赤マルを吸う。たまたまお互いの銘柄を吸ったことがなかったので交換し合う。紅茶を飲んだときの後味が舌に残る。いい匂いだった。喫煙感はあまりなかった。

 気がつくと二時間くらい経っていたのでお会計をして外に出る。覚悟を上回る寒さで、数店めぐってまた別の喫茶店に入る。「きっさこ」という名前だった。ジャズが流れていた。オランダココアと深煎りコーヒーを注文する。敬語外しませんかと言うと、私もそう思ってましたと言ってくれた。最近聴く音楽を訊ね合ってから、よかったら文通しないかと言うと、そういうの好きと言ってくれた。すこしお腹が空いてきて、チーズケーキを頼もうと席を立って店員さんを探しにいくと、もう閉店なんですよと言われた。相対性理論。残念だったねと言いながらお会計をして外に出た。

 風は感じられなかった。ただ、空気がしっかりと冷やされていて、質の違う寒さがあった。靖国通りから御茶の水橋口へと折れると、勢いに乗った大きな風がぼくたちを吹きつけて、風は建物で遮蔽されていただけなんだと知った。通り過ぎる大学の建物を立派だと話していたら駅で、井の頭さんの乗る丸ノ内線の出口まで送る。気をつけて、がハモる。よくある地下鉄の突風で井の頭さんの帽子が浮いた。と思ったら抑えつけられていて、井の頭さんの姿は見えなくなっていた。このシーン忘れないな、と何となく思った。

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鱒子 哉
今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。