私たちはちょうど始まったばかり(4)
コンビニと冷蔵庫
やってしまった。
そういえばそんなことを言っていた、と記憶に検索をかける。チャイコフスキーが好きだろう、と気を利かせたつもりが、裏目に出てしまったようだ。
侑二はラックの左端にあるシューベルトを手に取った。これならきっと間違いもないだろう。
そうっと振り返って透子を見やると、何か思いつめたようにして、この間のカフェのときと同じように下を向いている。この調子だと、透子はもうすぐにでも帰ってしまうだろう。
それからしばらく、時間にして四十分ほど、侑二と透子は黙りこくったままぬるくなったコーヒーを少しずつ飲んだり、「未完成」を聴いたりして過ごした。侑二は何か言わないといけない気持ちがあったが、考えているうちに部屋の空気は固まってしまっていた。
みるみるうちに凝固していったこの空気を一気に昇華させたのは、透子だった。
「ねえ、今晩泊まってもいい?」
侑二はとてもすぐには反応できなかった。急の発言な上に、内容なんて誰が予想できただろう。そのまま微動だにしないでいると、
「文字通り。以上も以下もないわ」
「構わないよ」
侑二は思考を放棄した。この彼女とうまく付き合っていくのに、通常の思考ではどうやっても無理な話なのだ。深く考えるより、それとなく順応していけば問題ない、はず。
「それじゃあ、ちょっとコンビニ行ってくるよ」
侑二はそう言って立ち上がり、何か要る物は、と訊ねた。
透子はまだ目を合わせないまま、顔を横に振った。
透子の考えがよめない――。そんなの、ずっとそうだったじゃないか。三年もの間変えなかったスタンスは、今更どうこうするべきじゃない。
透子の返事を確認して、侑二は玄関へ続く細く暗い廊下を進む。その途中で肩掛けの鞄を引っさげる。靴を履いて、何か――行ってくる、だとか、待っててな、だとか――声をかけようかと思ったが、透子はさっきからずっと変化がないらしく、侑二は部屋の電気をつけてから、そのまま家を出た。
家の外はもうすっかり真っ暗で、外灯と外灯の間には完全な闇があった。
あんなことで、とは思わない。透子には透子の、おれにはおれの、大事にしているものが身体とか頭の奥の方にはあるんだ。それが違うだけで、「おかしい」なんてことはないんだ。それでも、あそこまで、とは少し思ってしまうけれど。
住宅の建ち並んだ道に、突然の違和感が起こる。それは、もの静かで穏やかな夜に抵抗するようにして光を発している。そして侑二はそこへ向かっていく。
ピンポンピンポン、と自動ドアが開くと同時に音が降ってくる。侑二は悠然とその明るさの中へと溶け込んでいった。
ばたん、とぶっきらぼうに玄関の扉が閉じられてからどれくらい経っただろう。
透子は腰を置いていたクッションを枕に、おそるおそる横になった。ついでに思わずため息が流れ出る。
間違いではないの。人間誰しも主張があるんだから。ただ、胸を張ってこれが正解だ、と言えないだけ。
侑二の淹れてくれたコーヒーはもうずっと前に空になっている。ここに来る前に何か買っておくんだった。
こうやって、あともう十数日で三年になるというのに、彼氏の家の冷蔵庫一つ開くことができないところが憎らしい。もっと横柄になってもいいのに、とどれだけ言い聞かせたことだろう。結局入り込めたのは、ひどく表面的な部分でしかなかったのだ。
未完成はいつの間にか終わりを迎えていて、次のベートーヴェンが静かに、そして盛って漂っていた。いつもなら高揚するはずの気分は、重く倒れ込んだままだ。それにしても、シューベルトとこの部屋は相性が悪いな、と透子は思う。それはここが和室のせいなのか、侑二の部屋だからなのか、は判断できなかった。
顔を預けていたクッションから侑二の匂いがした。どうして私はこうも不器用なんだろう。
玄関の方で音がして、部屋の空気もゆるんだのを感じる。侑二の足音が響く。
「ただいま、アイス買ってきたよ」
透子は侑二に背を向けているにもかかわらず、思わずむっとしてしまいそうになる。そんなもので機嫌をとれると思われているのが癪だ。
「雪見だいふく」
この言葉を聞いて、透子は上体を起こす。ずっと不機嫌でいるのも嫌な彼女だし、と思ったからだ。
「お昼すぎからアルバイトがあるの」
結局文字通り透子は一晩泊まって、透子と侑二は健康的な朝を迎えていた。侑二のいつもの朝食――八枚切りの食パン二枚をトースターに入れてマーガリンを塗ったもの――を二人で向かい合って食べながらいるときに、透子が言った。
「そう」
全くその気がないといえば嘘になるが、侑二は自分の返事が異常に寂しさを帯びているのに困惑した。
これを聞いた透子は、すこし申し訳なさそうな表情をしながらもせっせとトーストを口に運んでいた。
このせま苦しい部屋を慌ただしくでていく様子を、侑二はじっと眺めていた。透子が最後、靴を履く前にこちらを見たとき、ちょっとだけ名残惜しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
透子が帰って、朝食で使った平たい皿とマグカップを洗い終えて、侑二は透子の枕にしていたクッションを持ち上げた。限りなく薄いが、ほんのすこし透子の匂いがした。
バイト頑張って、とメッセージを送っておいた。そのままスマホの中を目的もなくふらついていると、あの四人――この間の旅行のメンバー――のグループに通知があった。
侑二は思わず、まじか、と独り言を呟いた。ほんとうに健に彼女ができたなんて。そして、なんでか分からないけれど、侑二は焦燥感のようなものを感じていた。