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逃飛行

 僕の周りは嫌いなものたちで溢れかえっている。
 このフレーズが一分おきくらいに頭を過ぎる。でも、何が具体的に嫌いなのかと訊かれると、ちょっと困ってしまう。だから解決方法なんてものはきっとない。ほんとうは、知っているから。
 ほんとうに嫌いなのは、自分自身なのだ、と。

 ひっそりとした昏い部屋でぽつりぽつりと言葉を発する。僕は知っている、この隣人の生活音さえ聞こえるような静けさが、毎夜を襲う嵐の前兆なのだということを。
 スマートフォンの向こう側から、ミカの声と、その背景に外気の混じった音が絶えずその存在を強調するように続いている。
「明日は会えるからね」
「うん」
 ミカとはまだ一ヶ月を超えたばかりのホヤホヤカップルだ。告白は彼女からだったけど、いまではすっかり僕の方がぞっこんだった。恥ずかしい話。
「好き?」
 ミカは僕の心臓の産毛を撫でるような愛しい甘い声で訊ねる。この問いは、もうすぐ塾に着いてしまうサインだ。
「好きだよ」
 気持ち小声に、そう返す。ずっと言いたくて仕方がなかったのに、いざこう場をつくられると、どうも照れてしまう。
 相手には見えないのだから必要ないのに、照れ隠しでベッドの隅でうずくまっていると、ガチャガチャと乱暴に開錠する音が静まりかえった部屋に響き渡る。それを聞きつけたらしい母さんが、急に物音を立て始める。
 向こう側のミカは、僕が同じ問いを訊き返すのを明らかに待っている。そういう慣習だからだ。しかしヤツが最悪なタイミングで帰宅しようとしている。
「帰ったぞ!」
 父親の最初の怒声が――それまでずっと静かだっただけ余計に――家中を震わせる。
 父さんが帰ってきたから、なんて言って切るのはダサすぎる。でも急がないと僕の部屋へ入ってきてしまう。訊き返してもミカは「好き」となかなか言ってくれない。つまり、ピンチだった。
「タオルが少ねえよ!」
 きっと日がな一日降りしきる雨に濡れて帰ってきたんだろう。タオルを出してくれるだけ有り難いと思うだろう、普通。
 しかしその後に耳に入ってくるのはおそろしく細い声だった。
「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい――」
 所謂典型的なDV家庭だった。そしてその火の粉は息子である僕にまで及ぶ。
 ドッドッドッ、と大きすぎる足音が近づいてくる。ここはマンションの四階だと言うのに。
「ごめん」
 それだけ向こう側に言い置いて、切断した。ミカにはあとでちゃんと謝らないといけない。
「おい健人!」
 はっきりと僕に向けられた言葉ののちに、部屋のドアが荒々しく開かれる。
「父親が帰ったんだぞ!」
 そう怒鳴り散らす男の顔は赤く上気している。酒でも飲んできたのだろう。そのまま上機嫌でいればいいのに。それとも酒がこの人をこうも狂わせているのか。
 僕はじっと睨み返す。薄暗いなかで、あくまで反抗のつもりで。
「なんだその目は」
 そう言われても、やめない。
「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ!」
 男は醜く床を踏み鳴らす。こう言われて、僕は顔を背ける。どうやっても勝てないこのフレーズが悔しい。そしてこれを出せば何も言い返せないだろうと分かって言ってくるこの男も。
 タッタッとスリッパの音が寄ってくる。僕が既に屈辱を受けたあとで。
「夕食、できてますよ」
 母さんが気を反らせたいのを前面にして告げる。それに対しても感謝ではなく、「ああ」だった。もうこれが「普通」になっていた。
 強くなれば良いのだろうか。肉体、経済、権力……。でもそれらも無意味な気がしてならない。だって見返したい訳ではないから。それよりも縁を切ってあんなヤツのいないところで暮らしたい。できることならミカも連れて。とはさすがに進路希望票には書けないけど。
 やたらと図体のでかい男がリビングへ行ってしばらくしてから、通話により残り八パーセントになったスマートフォンを充電コードに差して、部屋をあとにした。
 リビングでは母さんがせっせと夕飯を台所からテーブルに移し、男はのけぞり返って新聞を読んでいた。どうせ新聞を読んだところで置いてけぼりを食らっているだろうに。
 父親はもともと癇癪持ちというか、感情がすぐに出やすい性質だった。そして近ごろ、会社で何かあったらしい。それが父親のせいなのかどうかは知らないけど、それを機にその気性がヒートアップしたらしい。そうこっそり教えてくれた母親の目は、すでに濁っていたような気もする。
 リビングとつながっている和室の畳の上には、白い袋がいくつか、中身をこぼれさせながら重なりあっていた。あの男が帰ってくるといつも慌てて服用している。精神科に処方された薬たち。
「揃いました」
 僕は無性に時間が気になって背後の壁上方を見る。が、一週間ほど前に父親が食器を投げたせいで壊されていたことを思い出した。それは二十二時四十九分で動かなくなっていた。
 時間をみるのを諦めて食卓につく。男は僕が着席したのを確認してから新聞を床に放った。
 今晩のメインはアジフライだった。嫌な予感が背筋を走る。
 男は無雑作に箸でアジフライにかぶりついた。くる。
「冷めてるじゃないか」
 重たい沈黙がテーブルを支配しはじめる。
 ごめんなさい、と母親はその支配が覆いきる前に口にした。その言葉が繰り返される毎に、男の顔はぐんぐん上気し、腕の震えが激しくなっていくのが見て取れた。とうとう嵐がやって来た。
「そう言えば済まされると思っているのかっ」
 脂ぎった顔面にしわを寄せ集めて母親へ睨みをきかせる。と同時に、ビールが注がれたばかりのガラスのコップを、誰もいない正面へと投げつけた。それはわずかにソファを外れて直接床に落ち、砕ける。シュワシュワと平和ボケした音を立てて。前は缶の方だったのに。鼻につくビールの臭いが立ち上(のぼ)る。
 母親を見ると、男以上に震えていた。震えながら、男に向かって頭を上げたり下げたりしている。
 最初のうちは母親に全面的に同情していた。けれどいまではそれも薄まっている。抵抗しなくては、それを助長するだけだと知ったから。この母親も、男と同様に依存しているのだ。もうどうしようもないところまで落ちている。
「よくこんなものが出せたな!」
 そう怒鳴るなり、男はアジフライの乗った皿を拳で叩きつけた。皿をというのは意図したのかどうか分からない。そんなことはどうだってよかった。
 平たく円形の食器は片側で衝撃を受け、もう片側が反動で持ち上がる。アジフライと付け合わされていた千切りのキャベツが、宙を舞う。そして、落ちる。大半はテーブルの上に着陸したものの、床へと飛び出したものも少なくなかった。もちろん、その流れ弾は僕の目の前にも降りかかる。
 その場にいる全員が舞い上がる千切りのキャベツに目を奪われた。そのことにバツの悪さを感じたらしい男は、立ち上がって自室へと向かっていった。その途中、この家で一番大きいゴミ箱を蹴散らして。
 怒りはとうに超えていて、もう無関心の域だった。父親ではなく異常者として見ていたから。けれど血縁は消えてくれない。僕とこの男の間にそんなつながりがあることに嫌悪しかなかった。
 嫌いだ。あの男も、母親も、家も、この状態も、全て。嫌いだと言って一線を引くことしかできない。それは僕が、まだ十四才だからなのか。

 小鳥たちの耳につくうざったいさえずりで、目を覚ます。眠りにつくときにもあった雨音はすっかり止んでいた。
 半開きの眼でベッドから自室を見渡すと、散らかり気味のものものが影の配分を多めにして佇んでいる。早朝。
 いつからか朝は早くなった。それまで朝は嫌っていたのに、そのうちに昼間の方が嫌いになった。何よりこの時間は静かだ。あの男もまだ安らかに眠っているから。この早起きはもしかすると、防衛本能というやつなのかもしれない。
 朝なんて、起きられさえすればなんてことはなかった。心地のいい目覚めと、誰も活動していないのだと分かる閑静さ。僕だけの時間だった。
 ベッドから起き抜けて洗面所でうがいをし、リビングへと向かう。あくまで足音には敷き詰めるような注意深さをもって。
 僕の家には常に菓子パンがあった。育ち盛りの僕がいつお腹を空かせてもいいように――という母さんの意向らしい。
 僕はそれらがしまい込まれたボックスを開き、チョコチップ・メロンパンを取り出し、閉めた。比較的お気に入りの菓子パンだ。
 冷蔵庫から牛乳を引っぱり、チョコチップ・メロンパンとコップと牛乳パックをいっぺんに器用にテーブルへと運ぶ。ここを二回も往復するなんて嫌だから。
 椅子に座り、なるべく音が大きくならないように封を解く。自分の家のはずなのに。決してわるいことなんてしていないのに。
 昨夜にあの男が散らかした缶ビールやキャベツやゴミ箱は、すっかり元通りになっている。男が席を立って自室に入ってから母さんは片付けをし始めたけど、その表情にうんざりするような色は全く見えなかった。むしろ喜んでいたような。あの、飼い慣らされた犬がボールを放られたときの、あの感じ。
 チョコチップ・メロンパンを食べ終え、もう一度台所へ戻る。パックを冷蔵庫へ、コップを流しへ置いてから、もう一度ボックスを開く。そこからカレーパンを取り出して、また閉めた。
 それから水筒に麦茶を注ぎ、洗顔と歯磨きと寝ぐせ直し――僕はほとんどそれが付かないから、ただ無意味に水で濡らしているだけだけど――をし、制服に着替えて、家を出た。もちろん全てそうっと、けれどドアを閉めるときだけはやたらと無雑作にしてやった。
 僕は限りなく自由だった。限りなく薄めた水色の空に、雨上がりの道を悠々と歩く。眼鏡なんてぶん投げてやりたい気持ちだった。さすがにしないけど。
 川沿いを歩くと、屋根付きのベンチに着く。僕は横柄にそこに腰を下ろし、カレーパンとミカが貸してくれた小説を取り出す。スマートフォンを見ると、あと一分で六時半だった。
 大好きなカレーパンと、大好きなミカがすすめてくれた本、そしてモヤが残る対岸の工場群。最高に気持ちのいい朝だ。はやくミカに会いたい。昨晩謝ったら、なんとなく分かってる、と言ってくれた。僕らは互いに家庭に問題アリなのだった。
 はやく放課後になれ。それだけで僕は上機嫌になれるんだ。

 どん。
 身体を眠り込むようにして机に預けていたら、左脇に大きくはないが小さくもない衝撃を与えられる。それでも、あくまで眠っているふりを続行する。無理があるのは分かっている。
「ちょっとー、気を付けなよ」
「ああ、悪い悪い」
 すぐ近くにいる一味の女子が注意喚起をするも、それは絶対に機能しない。なぜならそのつもりがないから。
 別にからかうだとか、わざととかではないのだろう。カースト上位のやつらはただ、気を払っていないだけなのだ。机にも、僕にも。
 それは構わない、それどころかこちらとしてもある程度都合のいいことではあった。気に入らないのは、そこから何もかも、誰をもネタにしたがるところだった。
「どんだけ寝てんだよ」別の男子が火ぶたを切る。
「別に頭良くねーし勉強ではないだろ」三人目の男が乗っかる。
「じゃあ何だと思う?」二人目の男子があからさまにニヤついた口ぶりで訊ねる。見なくても分かる、これは女子に振っている。
「ええ~?」訊かれた女子もニヤつく。お盛んなのは結構だが、僕を巻き込むな。猿ども。
「てかこいつカノジョいたよね?」なんで知ってるんだよ。
「あー。地味な割に可愛い感じの?」ミカはわざと僕と同じくらいのカーストにいるんだよバカ。
「えってことは?」やめろ。
「いやいや、やることは一つっしょ」
 うるさい。うざい、黙れよ。鬱憤がみるみる溜まっていく。ミカを汚すな、なんて言えばヒートアップを促すだけだから、僕が黙っているしかなかった。そのことが余計にいら立ちを加熱する。
「こんなやつが? ヤバくね?」
 一味はどんどん笑う頻度を上げていく。それにつれて身体も熱をもっていく。妄想のなかで、彼ら一人ずつをボコボコにしていく。そんなイメージをもつと、あのDV男が現れる。あの男の気質がもしや遺伝しているのか。あんな男の、子だから。そうしてまた積もっていく。ほんとうは今すぐそれらを発散したくて仕方がないのに。
 イライラする。たまたまカースト上位に生まれついたやつら、それを容認する教室、この短い休み時間、退屈な時間割。昼間の僕は、明らかに死んでいる。余分な自由に、殺されている。早く高校に行きたい。そこもそう変わらないのかもしれないと、分かっていながらも。

 からんからんからん、と音を発して踏切のレバーが下がる。光の問題だろうけど、夜の踏切はすこし威張って見える。負けじと僕も背を伸ばす。夜に飲み込まれないように。
 これを渡ったガード下が、ミカとのいつもの集合場所だった。幼く見られないように、黒のアンクルパンツに黒のジャケットだ。一ヶ月経つとはいえ、まだちょっとドキドキしてしまう。
 フェンスの前まで着くと、ミカがもう座っているのを発見する。彼女も同じく黒のワンピースだ(余談だけどミカはワンピースがとてもよく似合う)。
 足音で僕の到着に気づき、ミカは微笑んで手を振ってくれる。灯りがすくなくても、分かる。
「待った? ごめん」
「ううん、全然」
 吸い込まれるようにしてミカの右隣に腰を下ろす。すぐに立ち上がることを知っているけど。
「はい、お願い」
 ミカはそう言って五百円玉を差し出す。僕はそれを受け取り、ミカのかわいい顔を見てから、うん、と返事をする。
 塾のあとは、いつも五百円玉ができるらしく、童顔な彼女に代わって僕が買いに行く。そしてそれが五百円玉でなくなったときは、きっともっと大きなことが変わっているんだと思う。
「じゃ、買ってくるね」
「うん、気をつけて」
 僕は返事の代わりに笑ってみせた。大丈夫、いまのところ成功率は百パーセントなのだから。線路沿いを歩く。
 間もなくコンビニの前に来る。一呼吸して、入る。すこし物色して、おきまりのコカ・コーラ・ゼロを取り、レジへ向かう。
「ケント三ミリと、ラキストライト、それからファミチキを」
 ください、とは言わない。今の僕はオトナだから。
「年齢確認のタッチをお願いします」
 ゆったりと、焦らずに押す。やたらと気怠げな店員だけど、油断は大敵だから。
 僕の千円札とミカの五百円玉を手渡す。無事、何とかやり過ごせた。
 コンビニを出ると、急に力が抜ける。身体が重力を思い出す。それでも、なんとか駆ける。ミカが待っているんだもの。

 軽く息を切らせて戻ると、ミカのほかに数人がいた。彼らはタバコを吸っているらしかった。中学生に見えるけど、同じ学校ではなさそうだった。
「お待たせ」
 ミカは僕を見るとぱっと笑ってくれた。ヒュー、とか、熱いねえ、とかそいつらが口々に言った。
 誰? と訊くも、知らない、とミカは言った。ふーん、と返しながらケントを渡す。
 ミカは馴れた手つきでするすると包装を解いていく。中の紙も綺麗にちぎり、一本取り出して、咥えた。ああ、やっぱりミカはタバコが似合う。
 僕もレジ袋からラキストを取り出し、何とか開く。ミカのよりずっと不器用に。
「はい」
 ミカの左手からはもう煙が立っている。ピンクの可愛らしいライターを、僕は借りる。カチッと点けるけど、やっぱり一回じゃ上手くできない。
「吸い込むんだって」
 笑いながらミカが言う。そうしているつもりなんだけどな。
「あ、できた」
 ミカを見ると、あの大好きな笑顔を――まるで火を点けられたことへのごほうびのように――見せてくれた。
「一本目だね」
「うん、一本目」
 僕とミカは同じ本数ずつを吸う。これはミカの提案した約束だった。僕はそれまでタバコなんて吸ったことがなかったから、反対する理由もなかった。今なら分かる。それがタバコは二人のときだけ、という意味も含んでいるということ。いままた提案されても、むしろ喜んで賛成するだろうけど。
 もうむせ返すこともなく(多少のヤニクラは伴いつつも)「一本目」を吸いきった。僕はファミチキを取り出し、ミカに渡した。
「ねえ」
 顔を上げると、声を掛けてきたのはさっきの数人のうちの一人の女子だった。目を合わせて続きを促すと、
「アタシらこれから吸いにいくんだけど、アンタたちも来る?」
「吸うって、タバコ?」
 ミカの質問に、ははは、とその女子(というよりは女と言った方がふさわしい感じがする)は大げさに声を上げる。
「ちげーよ、大麻だよ」
 言葉が出なかった。そんなものが、こんな身近にあるなんて。身体が一瞬硬直するのを隠せなかった。
 どうにかミカを見やると、その目は恐怖ではなく、それどころか期待と興奮で溢れていた。確かにタバコじゃ非行感は薄れてきたけど――。
 それで思い至る。そうだ。僕はミカを何より愛しているけれど、ミカは何よりも非行を愛しているのだ。家から解放されるために。僕も、嫌いから逃避行するために。そして、僕は愛するミカにチキンだなんて思われたくなかった。
「行くよ」
 そう言うと、
「わたしも」
 とミカはかわいらしい声で続いた。

久しぶりに小説の投稿です。「嫌い」をテーマにして書きました。
感想等お待ちしています。
よろしくお願いします。

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鱒子 哉
今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。