正当化したい、それが人の性(さが)
自分を正当化したい。
間違ったことをしたと思いたくない。
その気持ちが、ポジティブに向けば前に進む力になり、ネガティブに向けば周りへ攻撃的になるのだ、と思う。
たとえば、寒い日の夜、薄着で出かけたために寒冷湿疹ができたとき。
ポジティブに向いた場合は、「これでわかった!次からは夜はちゃんと着てく!」と結果を受け入れ、次のための対策を考える。
ネガティブに向いた場合は、「なんでこんなに寒いの?お母さん、ちゃんと着て行けって言ってくれたら良かったのに」と自分以外の対象を責める傾向が出る。
これは最近のうちの実話で、娘っこがポジティブ発言していたのにハッとさせられたわけです。ネガティブ発言の方がよくあるパターンのように思えるだけに、そういう捉え方ができるんだねーと。
ポジティブが良いとかネガティブが悪いとかいうわけじゃないし、そもそも気持ちに善し悪しはないので、どっちが良いってことじゃないんだけど、ポジティブ発想の方がきっと楽に生きれるだろうなぁ。本人も、きっと周りも。
よくある私の失敗を話すとすれば、
自分がいらいらしているせいで、普段なら怒らないようなことで子どもに怒ったときでも、この「怒った自分」を正当化するために、一般的に正しいと言われるようなもっともらしい理由をせっせと延々と語る、という。
子どもにとっては迷惑でしかないこの行為は、本当にやめようと思う。。
相手が子どもだから、親は上に立ちやすいし、反論もされにくい。そういう立場上の有利さを利用した、とてもずるいやり方だと本当に思う。改めて、本当にやめる。ごめん。
それはそれとして。
いつだって正解の道を生きていると思いたい。選んだ道は間違ってないと思いたいよね。
自分の感情も行動も言葉も、ぜんぶ正当な理由があると思いたい。いつだって自分は正しいと思っていたい。
それが生きる理由。自分に生きていていいよって許可をするために必要なもの。それがないと自分を信じていられなくなるから。
だから否定されると拒絶してしまったり、反撃してしまうのは自然な反応だよね。それが良いというわけではないけれど。
誰もが同じ、「自分が正しいと思いたい」そんな気持ちがあるのだから、お互いにすこーしずつ譲り合って、歩み寄って、話を聞き合えればいいと思う。
お互いに自分が正しいって言い合ってたら、争いが止むことはない。
いろんな心情やプライドがあるけれど。
だけど、いちばん大切なことは何?
それはお互いに共有できないことなのかな?
同じ山に登るのに、道が違っているだけってことだったりしない?
その最終目的よりもお互いの正しさを主張し合う方が、ほんとに大切?
みんなおんなじ。
その視点に立てたら、またちがう世界が見えてくるよね。
相手を打ち負かして作る世界より、もっと優しい世界が作れるよね。
わたしも絶賛修行中ですが!
どうせなら、みんなが幸せになれる形がいいよね。
でね、
じつはすごーく大事なことなんだけど、
本当のところ、まちがったって大丈夫なんだよ。
まちがっても、それは正解につながってるから。
まちがいも正解の一つの形。
安心してまちがおう。
自分の生きたい世界はどんな世界?
今日もありがとうございました。