争わない生き方

思考の整理としてのノート術は定期的に実行しているけれど
「記事」という形での文章は
しばらく書いていないとすぐに書けなくなる。

書いては消し、書いては消し、で
まったく進まない。

他者の目があると意識するだけで
こうも表現できなくなるものか。。


書きたいことは山のよう。
頭の中にはアイデアがたくさんあるけれど
いざ文章に落とそうとすると
なかなか上手く表現できない。


それは書くことに限らず、
話すことについても同じで

言いたいことはちゃんと頭の中にあるのに
それにちょうど当てはまる言葉が見つからない。
言葉が出てこない。
そして話せないまま諦める。

子どもの頃からずっとそう。

なんでそういうことが起きるのかというと
頭の中はアナログだけど
言語はデジタルなので
考えていることを口にするということは
曖昧なものを定義のはっきりしたものに変換する
という作業だからだ。

頭の中のイメージを現実に形に変える
っていうのは
たとえば
見たものを絵に描く
ってことだ。

難しいよね。

絵が特別なんじゃない、
言葉だって同じこと。
言語化にはやはりある程度のスキルが必要だ。
そういう微妙なイメージを
日本語はあの手この手で
ニュアンスを変えて表現するのに長けた言語
だからこそ
私には難しいの。

それでもできるだけイメージが近付けるように
今もまた挑戦を続ける。

だからなんだ。
前置きが長い。


言葉はうまく選ばないと
変な誤解につながることがよくあって
それが確執になったりする。

最近Twitterを良く見ているのだけど
あげ足をとっては相手を貶めて
都合が悪くなると無視して逃げる
そんなやりとりが多くて

なんだか優しくないなぁ、、
と感じるのです。

相手に完璧を求めすぎるのでは?
自分とは違う意見を敵視しすぎているのでは?

それが争いを生むのだよ。

争う必要なんてない。
自分と同じように、
相手にもその人なりの考えがある。
自分にも相手にも、
自分なりの考えを持つ自由がある。

あなた間違ってます!と
名指しで声高に言ったところで、何になる?

みんなが同じ考えになる必要がある?

それぞれが自分の考えを尊重して
その自分の声に従う自由がある。

自分が出したものは自分に返ってくるからね。
非難したら非難が返ってくるだけ。

赤信号は止まれ、
そのルールに異議がある人はいないと思う。

でも、たくさんの異議が飛び交うような場合は
それは見直さなければいけないルールなのかもしれない。

「ルールなんだから」と一蹴する前に
本当に今に必要で適したものなのかを
いったん考え直してみた方が良いのかもしれない。

じっさい昨日出くわした子どものケンカ

「こっちのルールでやった方が楽しいよ!」
「そんなの知らねえよ!勝手なルール作るな!」
「やってみないとわかんないじゃん!」
「ルールは変えちゃダメなんだよ!」

今までのルールが絶対なんだと
新しいものを受け入れようとせず
一切話も聞かない。

まだ視野が狭くて自分が一番のお年頃。
とことんやり合えばそのうち
ケンカ自体が馬鹿らしくなって
また仲良く遊びだす。

子どもはそれで良いと思うけれど
大人がそれじゃみっともないね。


争いごとを見るたびに
大好きな歌の歌詞を思い出す。

『人はそれぞれ「正義」があって
 争い合うのは仕方ないのかも知れない
 だけど僕の嫌いな「彼」も
 彼なりの理由があるとおもうんだ』

『人はそれぞれ「正義」があって
 争い合うのは仕方ないのかも知れない
 だけど僕の「正義」がきっと
 彼を傷つけていたんだね』

SEKAINOOWARI『Dragon Night』より


もしかしたら
私のこの記事だって
普段の言動だって
無意識に正義をふるっていて
誰かを傷つけているのかもしれない。

大切なのは
そういう自覚を持つこと。
自分だけが正しいと思わないこと。
方法は100万通りあるのだと思うこと。
平和調和の意識でいること。

肝に銘じて今日も過ごそう。

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