私が不快なことと出会った時。

私は決して良い人間ではないと思う。

そんな私が、夜毎に、こうも偉そうに、分かったようなことを様々に書き綴っているなんて我ながら鼻について仕方ないのだけれど。

じゃあ、良い人間と言えるようになったら書いてもいいのかというと、一生かかってもそんな時は来ないような気がして、死ぬその瞬間ですらきっと自分が良い人間だなんて言えないだろうと思うから、

自分のことは棚に上げて、と思われてもしょうがないし、笑われたり蔑まれたりしてもしょうがないし、それよりも自分がその時々に思うこと感じることを残すことで、何かしらの役に立つ可能性が1㎜でもあるのなら、こんな私で申し訳ないけれど、やっぱり書き続けようと思った。


日常に生きていれば様々な人と関わるわけで、ものすごく素敵だ大好きだと思う人たちもいれば、いやいやもうほんと勘弁してくださいと思うような人に出くわすこともあるのは、誰でもそうだと思う。

交通マナーの悪い人とか、もうほんとやめてほしいと思う人と出くわすと、もちろんその人に対して憤りやら不愉快な感情やらが湧いてくるのだけれど、ちょっと冷静になると、自分も同じことをやったことがあったんじゃないかとふと不安になる。

そうして、自分も同じように、自分勝手に、周りを見ないで、自分のことだけを考えて、他人にひどく迷惑をかけてきた。そういう一つ一つを、思い出す。

最近はそういうことがとても多くて、不義理・無礼・裏切り、数々の自分が過去に他人に対してやってきた「許せないこと」を思い出しては悶絶する。

相手を責めていた気持ちが一変して、自分を責め始める。「ほんとにダメ人間だな」って思ったりする。

でも、それも、外側の世界を見ているからだ。


事実はなんの意味もなくて、自分が意味を作っているだけ。

私は私を責める世界を自分で作っている、というだけのこと。

私は他人を利用して(言い方を変えると、他人という存在を借りて)、自分を責めるという現実を見ようとしている。

私は許せないことをした自分を責めたい。

責めることによって、償おうとしている。

本当は、「ごめんなさい」って、謝りたい。

許されたい。


不快な出来事に出会うということは、自分の中の、(自分で思っている)罪を懺悔したい気持ちがあるということだった。

だったら、表面的な部分で他人を責めてないで、自分を責めてないで、潔く悪かったことを認めて許すと決める。ごめんなさい。愛してるよ。ありがとう。と、手放そう。そして、繰り返さないためにどうすればいいかを考えるんだ。

終わったことは変えられないけど、その経験があるから、もう同じことは繰り返さないし、その時よりも大きく優しくなれるはず。


何か不快なことがあったときは、その相手と直接向き合うよりも、自分の本当の気持ちと向き合うこと、が何より大切だと思う。

今後の自分の世界を変えていくならね。

がんばろ。



今日もありがとうございました。

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