誰のためにがんばる
自分のためにがんばれない。その自覚がある。
※がんばるっていうのは、この記事においては、「気が進まないことでもやらねばの精神でやる」、という意味で使う。
昨日の夜めずらしく寝つけなかったので、今朝は眠くて起き上がるのがとっても億劫で。お子さんたちの朝ごはんを作らなきゃいけない、送り出さなきゃいけない、という思いで無理やり起きたんだけど。自分だけならごはんなんて食べなくていいから出勤ギリギリまで寝てるなぁと思う。
ふだんから、お子たちのいない時の自分ひとりのごはんは、卵かけごはんだけだったりカップ麺だったり白米のみだったり、めっちゃテキトー。それか食べに出かけてしまう。たまにはちょっと作るかってときも、マヨネーズで炒めた卵だけチャーハンとか、フリーズドライのスープにうどん入れただけとか。おいしい方がいいけど基本「食」に興味がなく時間をかけたいと思っていないから、おなかが満たされればそれでいい。
だからと言って、自分を大切にしていないってことではない。
寝る時間、本を読む時間、心を落ち着ける時間、そういうのは自分にとって大切なので、きちんと時間をとるように心がけているけれど(純粋に幸せな時間だし)、たとえば何かの目標を達成するためにがんばるってことは、自分一人の目標だと難しい。それが誰かのためになるとか、誰かに応援されているとか、そういうのがあるとがんばる理由になる。
お子たちが成長するための栄養をしっかりとらせるためなら、眠くてもごはんを作る。お子たちが安心して一日過ごせるように、「いってらっしゃい」を言うために、母としてがんばる。
新人さんが不安にならないように、お客さんが喜んでくれるように、自分にできることを一生懸命やる。時には誰もする人がいないからどうしてもって頼まれたら、私だってやりたくないけど、それで安心してもらえるなら、完璧にはできなくても、やるよ。
「役割」とか「責任」は私をがんばらせてくれる。必ずしも感謝や見返りがあるわけではない。そんなものが欲しくてやっているのではないんだと思う。ただ、自分がその責任を全うすることで助かる人がいたり全体が良くなるのであれば、そのためならがんばろうと思うんだ。それでもやっぱり感謝や見返りは返ってくることはとても多くて、棚ぼた的に本当にありがたいと思う。
だけど、昔からそんな人間ではない。
いっぱい人から良くしてもらっておきながら、きちんと恩を返すこともしなかったし、重い頼まれごとからは逃げていた。視野が狭く、ずるかった。
そんなだった自分が今にして、より良い人間に成長したいと思い、人のためにがんばろうと思うのも、周りの人たちにとって良くなるため。未熟なまま周りに迷惑をかけ続けたから、そんなことがもう起こらないように。
究極的には、「人のため」は「自分のため」なんだよね。
日々の一つ一つが、自分の器を広げようとしてくれている。
周りの人が、出来事が、力をくれる。
どんなに嫌な出来事だって、自分の限界を超えるためのもの。
もっと強く、もっと賢く、もっと優しくなれと。
この世界に生きられて良かったなって思う。
こんなにも世界は自分のために力をくれているって感じられたから。
いつだって守られているし、優しさにあふれている。
合掌。
今日もありがとうございました。