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死ぬことと見つけたり

木下所長のVoicyを聞いていると、たびたび「武士道」や「死生観」という言葉が登場します。

武士道と言えば『葉隠』。
『葉隠』と言えば有名な一節が
「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」です。
『葉隠』は江戸時代、佐賀藩鍋島家の家臣・山本常朝が語った武士道の教えをまとめたものです。数多くの解釈や現代語訳が存在しますが、私にとってもっとも心に残るのは、隆慶一郎の小説『死ぬことと見つけたり』です。 

歴史小説がお好きな方なら是非おススメです。
 
この小説は、史実を織り交ぜながら、江戸時代初期の佐賀藩のお家騒動や権力闘争を描いたものです。主人公・斎藤杢之助は毎朝「自分の死に様」を具体的にイメージし、入念に「死んでおく」ことを習慣にしていいます。

寝床を離れる時、杢之助はすでに死人(しびと)なのである。死人に今更なんの憂い、なんの辛苦があろうか。

『死ぬことと見つけたり』隆慶一郎

いつの世も人間関係(親子、夫婦・友人・職場)や仕事が悩みの種となりますよね。ただ現代と違い江戸時代ではまさに「生き死に」がかかってきます。これらに対して死人(しびと)として執着なく俯瞰する視座に立って行動する杢之助や萬右衛門、求馬の姿は実に清々しいです。どう死ぬのかというのは死生観ではなく、どう生きるのかということになります。つまり、生きることとは死ぬことと見つけたり、です。
 
この姿勢は、私自身にも大きな示唆を与えてくれます。日々の困難や人間関係に執着せず、「死人(しびと)の視点」に立つことで物事を冷静に判断し、俯瞰して生きることができるのだ、と。「どう死ぬか」を考えることは、つまるところ「どう生きるか」に通じるものだと実感します。
 
昨年、父が他界しました。私のことを惜しみなく十全に愛情を注いで(ときに過保護を超えるくらい)育てくれました。父には、心を通わせられる兄弟姉妹もなく(実際に断絶しており、私は親戚はないと思えと、育てられてきた)、すべてのエネルギーを私に向けてくれました。思春期には反発したこともありましたし、私が自営で独立してから数年は考え方が異なり、意思疎通が困難な時期もありました。しかしそれを経てこの十数年は穏やかな関係性であり、そして(概ね悔いのないくらい)孝行してきました。今振り返っても父には心から感謝の念しかありません。人が亡くなるということは本当に悲しく、ただただ寂しいことです。一方で、父は多くの「置き土産」を残して旅立ちました。それは単に物理的なものだけでなく心理的な重みを伴うものもありました。何せ「ものを捨てられない世代」でしたから。
 
父の死を通して考えさせられたのは、「人が亡くなった後、その人がどのように記憶されるのか」ということです。たとえ意識していなくとも、私たちは日々の生き方によって自分自身の「置き土産」を作っているのではないか。そしてその置き土産が、遺された人々の記憶にどのような形で残るのか、ということをです。
 
私自身、父から受け取った課題と向き合っています。父の存命中は、当事者意識が希薄で、このままではいけないなあ、と漠然と思っていました。しかし、昨年急逝し、ご先祖のことを調べていくうちに、これは自分の人生をどう生きるかを考える機会をもらったのだ、と受け止めるようになりました。繰り返しますが、武士道が示す「死ぬことと見つけたり」は、死そのものではなく、生きることの意味を問う言葉。「死ぬことと見つけたり」という言葉が私に問いかけたのは「人生のバトンをどう受け取り、どう渡すのか」ということです。そのために、まずは自分の人生をしっかりと生き抜くこと。自分の意志を改めて確認し、日々の行動に落とし込むことが大切だと感じます。最後はどうなっていたいか。これもある意味「逆算」かもしれませんね。有限の時間をできるだけ後悔の少ないものにしたいと考えています。
 
ここに記すことで、自分への覚悟の証とします。何せ追い込まれないと動かないタイプなので。
これもまた一つの「自分を動かす」手段。

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