だから今街に出てみよう。
例えば。
例えばの話ですけど。
イーロン・マスクと場末だけど美味い酒の肴を前にそれぞれの好きな酒・・・を出せる日本の居酒屋で、それぞれの夢物語を、相手の思想や信条を否定せずに語り合う・・・そんな世界があったら・・・
なんかワクワクしないでしょうか?
相手は全てを持ち、また持つために挑戦する為に前に猛進する人物。
かたや、私のように何も持っておらずただただ、身の回りにキュウキュウと毎日をやっと生きながらえている人間。
交差するお互いの心情や人生観。
理解が困難な状況の中で、あまりにも交わる事がないそれぞれのパーソナリティで飲みながら延々と一晩中、徒労としか傍からは見えないシーン・・・。
全て持つ者と何も持てなかった者の邂逅すら持てないように見えてしまう飲みの席。理解しあえない接点がまるで見えないシーン。
・・ですが・・
話し合ってるうちに接点が、
ごく僅かな接点が見つかり、
そこから共有の世界がひろがったり、また、反対に議論に発展したり・・・
でも、わかり合えないからと言ってすんなり自分の世界から切り捨てしまう 分断 の世界に移してしまうのは、あまりにも勿体ない・・
などと。思うのは私だけなのでしょうか?
皆さん、いかがお過ごしでしょうか?MUです。
今回はオタキングこと、岡田斗司夫氏の動画をシェアしたいと思います。
今の、この社会の希薄になってゆく人間関係の本質の世界。
圧倒的に財力に基づく権力を握って思うままに変えよう、また変わりゆこうとする未来。
自分の思考の正しさを証明する為に、予測する 前提 として思い描く将来の中で自身の存在を限りなく示そうとする、その努力。
人生のその生きた証を、生き延びた先の支配を前提とした未来。
究極、何を帰結としたいのでしょうか?
寂れた街なかのシャッター街。
人の息吹は感じられず、所詮は孤独の中で他を解ろうともせず、解り合おうともせず・・・
そこは寂しくはないのでしょうか?
そんな未来を渇望するのでしょうか?
ビリオネアと称される人は。
寒くはないのでしょうか?心は。
どんなに財を築こうが、生命が終わるその瞬間から、それ以降のあるかないかもわからないその後に移行する生命自体の旅路の先に、それまで蓄えた財がそのままその先の世界までに持ち越す確信を、ただいま現在からこの先までそのままのままで持って行ける事などないというのに。
刷り込まれたかもしれないその価値観に囚われてはいないでしょうか?
この世界が、もうどうしようもないほど荒廃してしまったとしても、どこにその匿われる場所を求めるというのでしょう?
それよりも、限りなく無駄とは分かっていても・・・
解り合えないと予感がしたとしても・・・
立場は違えど、お互いの考えや思いを、たとえ解り合えなくても飲んで食べながら顔と顔を突き合わせて、無駄と思える付き合いをする事が、年を経て素晴らしい掛け替えのないこの上ない貴重な時ではないかと、私自身は思うようになりました。
全てを叶えて持っている人は本当に幸福を、果たして感じているのでしょうか?
だから、今だからこそ、寂れていたとしても・・・今・・・
街に繰り出しす価値があるのかもしれません。
皆さんはどう思いますか?リアルを、この世界を。
怖いですか?