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父の人生を変えた『一日』その97 ~長老~

その97 ~長老~
 電気業界に入って早20年になる。20年前当時を思い出してみた。もちろん親父さんも元気であった。ある長岡の電気工事組合の会合に出席した。30分前に会場に着いて、長岡新参者だったので末席に着座した。ある人が遅れてきた。真ん中の席が一か所空いていた。そこに遅れてきた人が着座した。その正面に長岡電気工事組合の長老が座っていた。
「お前そこに座るには10年早い」と一括した。
若い人は驚いてどうしようかうろうろしていた。そこしか座る場所が無かったのだ。私は直感的にこの電気業界はまだまだ古い体質が残っているなと思った。宴会でも必ず上座には酒をつぎに行った。そうしないと
「あいつ俺に酒をつぎにこない」と、ぐだぐだ言われる世界であった。
古いしきたり悪い習慣が残っている業界であった。
 工事組合のゴルフ会があった。ハンデ30で出た。初めての長岡カントリーでのゴルフであった。どうしたことかノーズロ4回(つまりグリーンの外から直接カップイン)挙句の果てには南のロングホールで3打目が入りイーグルをだして39で回ってしまった。30台など生まれて初めてのことで自分でも驚いた。ハーフあがって食堂に来た。長老が「お前、スコア幾つだ?」と聞かれた。どうなったのかまぐれで39ですと元気に答えた。ハンデ30で39とは一体どうなっているのだと長老は怒り狂った。後半ハーフは51回で元の自分に戻った。しかし、あの時に長老に怒られたことは決して忘れなかった。そのような電気業界も今はかなり若返り変わってきた。良い方向に変わってきのである。


~倅の解釈~
 振り返ると、親父が長岡に戻ってきたのは40代中盤。まさしく今の私の年代である。どんな気持ちだったのだろうか、たまに考えることがある。初めて総合商社を退職してこの田舎のまち長岡にて始動した時の事、あまり親父は語らなかった。私自身もアメリカ留学中に父の人生のターニングポイントが始まったわけであるから、共に生活もしていなかったので、検討もつかない。
 ただ、言えるのが「住めば都」が口癖だった親父。楽しんでスタートを切っていたに違いない。数少ない、親父の文章の中で長岡に来たばかりの文章がこの項目である。
 長老に対し、旧体質に対し、反論をするような文章にはなっているが、この行間を何度か読み返すことで紐解けた。親父は、長老の皆様にいじって頂けるよう、振る舞い、更には物凄く可愛がって頂いたということだ。そうでなければ、このように単刀直入記載できない。
 ダイヤはダイヤでしか磨けないように、人は人でしか磨かれない。大好きな言葉だ。ものすごく奥深い言葉だと思う。磨くということはそこに「摩擦」が起きる。いわゆるコンフリクト。今の時代、この摩擦をいかに避けるかを考える世代が若者世代になったと社会的に騒がれているが、親父の時代も、勿論、私が長岡に帰ってきた時代も「摩擦」を欲して動いたものだ。いかに気にかけて頂くか。良くいえば。悪くいえば、いかに目立つか。出る杭になれるか。
 同じ経営者、クライアント様、協力業者様、スタッフと日々の人生の中で関係を持つ「ひと」が私には沢山いる。まだまだ、若輩者、若造経営者なので、ふと気づくとこの「摩擦」をいかに回避するかを考えてしまっている。幸い、弊社には「長老」という名の付くスタッフがまだ数名残ってくれていて、この「摩擦」を生み出してくれている。大変ありがたい。
 今現在、2020年3月、日本は新型コロナウイルスと闘う中、また混沌とした社会と向き合っている。これは国際社会も同じことである。10年後、20年後、この「摩擦」をどう乗り切っているかを読み返す、振り返るのが楽しみである。敬愛する経営者の大好きな言葉、「ピンチはチャンス」。まさしく、大きな大きな「摩擦」が今、日本を揺るがしている。怯えず、大いに向き合いたいと思う。


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