父の人生を変えた『一日』その87 ~長岡財界デビュー~
その87 ~長岡財界デビュー~
長岡に着任して右も左も分からなかった。創業者の親父さんが色々と気を使ってライオンズクラブに入会させて頂いた。着任して2年目であった。最初、商工会議所に入れようとしていたみたいだが親父さんが1号議員をしていたのでライオンズクラブとなった。
異業種交流会みたいな奉仕団体で色々な人的人脈ができあがった。ある人曰く、ライオンズクラブは『生まれたときから死ぬまでお世話になれる』と?言った。つまり産婦人科の医者から亡くなったときの坊主までライオンズマンであるの意味であった。なるほど確かに異業種交流会だとつくづく思った。
例会を仕切る計画委員長そして幹事、地区役員を経て会長に6年前になった。三役の幹事・吉井特許、会計・今井富雄の弥次喜多三役であった。5ライオンズクラブ合同の新年会を英語でやってみた。地味な長岡で派手なライオンズ活動をした。
そのほかに電気業界の色々な団体にも顔をだして人脈を作り出していった。あの有名な新潟が生んだ『田中角栄氏』は人の名前を覚えるのが名人であったと聞いているが私も人の名前を覚えるには長けていると自負している。人間と人間の付き合いそこに生まれる友情、同胞意義それがいろいろと商売に生きてくるのであった。まさに総合商社マンから電工事会社への脱却であった。何の商売でも人対人であるとつくづく実感した。
~倅の解釈~
父がライオンズに入っていたことを鮮明に覚えている。理由は単純でアメリカ留学中に日本に帰省している時、例会にて空手の演武をさせて頂いたからである。
『お前がライオンの倅か!』
『しっかりと勉強しろよ!!』
様々なあたたかいお言葉を頂いた。
父はとにかく初めて経営者としての立場を楽しんでいたイメージだった。総合商社で出来た人脈も素晴らしいものがあるが、長岡で経営者の仲間に恵まれ、幸せそうだった。いつも悪友、悪友と呼んでいた数名の社長様の皆様とは亡くなる3年前ぐらいからお付き合いが少なくはなっていたが、長岡をご紹介頂いた皆さま。父の葬儀の時は国会議員や県会議員の方々に葬儀委員長をお願いしたほうが悩んだが、父の性格上、私が業界からどう言われようが、父の大親友であった方にお願いした。葬儀の時は本当に悠久ライオンズの皆様に本当にお世話になり、涙が止まらなかった。
『お前は俺の葬儀でやっと俺を心から尊敬するよ』とよく親父から言われた。その時は葬儀に来られる方々の人数と勘違いしていた。違った。亡くなった後に路頭に迷っている私を支えてくれた方々の暖かい励ましの多さの意味であった。
『お前も、悪友をちゃんと作れ』という意味であった。父が亡くなった直後に悠久ライオンズには入会させて頂いたが、出張が多すぎて1年間で1回しか参加できなかった。残念ながら、退会をさせて頂いたが、いずれはまた地域貢献という形で恩返しをしたいと思う。
親父は長岡では心底嫌う敵も多かったが、それ以上に心の悪友が多く、感動した。
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