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地方ではまだ「みんなで」が「普通」だったりする/教育と地方の課題

教育の今。地方の今。

各所で未だ昭和の価値観が表れる。


今日も自分の子に関わる場面、ある場所で、
「みんなで」という無意味なルールや思い込みのセリフを聞いた。


その「みんなで」って本当に大事なことで、本当に意味があるの?
社会に出ても、共同体の中でも、本当に役に立つの?

そもそも、私たち、子どもたちはこれからどんな社会を築こうとしているのか?


昭和の我々が信じていた「みんなで(〇〇をしなければならない)」信仰を、言葉から疑わなければならない。

大抵の場合、そのセリフ自体を無自覚で使っているのだ。


リアルで聞くと、まさか、と思うくらいのセリフで、油断しているので驚いてしまう。
地方では油断は大敵なのだ。

(もちろん、僕はオフライン(リアル)で言えないことをオンラインで書くようなことはしないので、これについてもその場で直接、伝えています)


教育に関わる人は、本当に旧来の価値観を考え直さねばならない時にきている。特に地方はその手の価値観の遅れが甚だしい。

いつも断りを入れているのだが、都市部の人には想像だにできない遅れなのだ。これは住まないとわからない。



地方の今と今後の問題は、
公的な機関については、選択肢がないこと。

例えば、子ども関連で言えば、学校。受験がほとんど存在していない地域では、たまたま生まれ育った場所にある小学校、中学校に通う、ただその一択であることがほとんどだ。

今のところ地方の最強戦略は、引っ越す、ということになるが、本当にそれで良いのかを考える必要がある。


僕らは多様な社会や共同体のを生きることを約束されている。
子どもたちは尚更だ。


必要なのは「みんなで」ではない。

それぞれ多様なのだから、いろいろあっていいのだけれど、

「他者の自由を侵害しない範囲で、どう折り合いをつけるか」

「ただの自分勝手にならない思考」

「社会システムや共同体が成り立つ範囲での自由がどこまでかを考える」

こそが求められるのだ。


無自覚のままだと、
そもそもここは「みんなで」一緒に合わせてもらわないと困る、なんてことを言い出してしまうだろう。


まあ大事なことは公的機関は、大人の教育をしっかりやった欲しいと思うけれども。


日本では、ムラ社会的な価値観が、工業社会においては会社に引き継がれたと言われている。

みんな一緒、は、ずっと続いてきたのだ。

輪を乱すものは、許さないというような。おいおい。

選択肢のない地方が、どうやって多様性を引き受けることができるのか?は大きなテーマであることは言うまでもない。


この点においては、社会学などをみると、
日本では未だ近代国家というには遅れていて、近代国家の意での「市民」として振る舞いが未熟なことが分かる。



とにかくまずは大人、それもリーダーポジションの、その人たちが理解しなければなるまい。
または、理解できる人をそもそもリーダーにおくべきだ。
年功序列や地縁血縁、ムラコミュニティへの貢献度、ではなくてね。だから、知識も教養、つまり知性が必要。教育熱が低い地方では、ここが疎かにされすぎている。

まずは、リーダーから。もう自分が時代に合わないと気づいている年配の方には早めに退いてもらう。または権限を移譲する。

地方の生き残り戦略としては、まちづくりとか賑わいとか移住とかではなく、そもそもの本質に目を向けること、それこそが大変重要な鍵となるのだ。


(終わり/FB投稿より)




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本田篤嗣(Master Honda)
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