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地方発信の意義/都市部の皆さんの知らないこと/地方での意見はただの悪口として認識される
エビデンスやデータ、論理には依らず、感情論を撒き散らすというのが、よくある地方での振る舞いで、議論のようなものが成立しないのが常だ。
だから、何か意見をすると、それはすべて悪口として判定されるという性質を持つことになる。
99%がそうだとすると、残り1%のほんのわずかな知識層、知性を持ちうる層が、何を言ったところで、同じ扱いをされることになる。
地方や少なくことこのまちの現状は長く変わっていない。
こんな中にいると、データやエビデンス、論理的に強度の高いと思われる意見も、ほとんど発することは無意味で、むしろ、村には不要だと判定されるため、マイナスの方が大きい。
なにせ、強い年功序列とトップダウンの組織、権力の在りどころの頑な固持で満たされているまちにあっては、
いちいち意見するな、反抗するのか?、というノリになるばかりで、マイナスしかならないことは、まあ住んでいるとわかることだ。
僕としても、今の取り組みが、ただの商売(一企業としての利潤追求行動)だとしたら、
洞察や意見、提言を発信すること自体は、マイナスにしかならないのでメリットはなく、耳馴染みの良い言葉だけを書くことに徹するだろう。
幸い僕の場合は、教育を商売にする気がなく、NPOに法人形態を変えたほどである。
利潤、いわゆるお金を頂点のゴールには置かないのだから、必要なことは書くし、発信をする。
単純に商売を考えれば、マイナスしかないことは明らかなのだが、僕にとってはそんなことはどうでもよいのである。
残念ながら、自分の生活のために、本当は〇〇だと思っている、を飲み込んで、商売をしている人は多いだろう。
そういう方には、自分がたった一度の人生をどう生きたいか?を、考えてみることをお勧めしておこう。
あくまでも本人が決めることだからそれ以上言及はしない。
どういう人生を送ったのか?僕は自分の生を終える時に、どういう言葉(セリフ)を言うことができだろうか、をいつもそれを考えている。
“自分の墓標にどんな言葉を刻みたいだろうか”
話を戻そう。
商売のため、お金のため、自分の地位や名誉を守るため、何事にも声を上げず、従属する人生を選ぶのか、
それとも、
利他、仲間のため、もっと大きな共同体のため、社会のために、本当に必要だと思えることを、ちゃんと発言し発信するのか。
自分の信念に問おう。
僕は後者を選ぶ。
それだけだ。
(おわり)
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