
0016 我が名は、世界の理を超越せんとする
前に『竜神さま』が御姿を現したのは、十数年も前のこと。
ル・ベリの母リーデロットが『最果ての島』に流れ着いた直前の、嵐の数日間であったらしい。母リーデロットは、その"嵐"の中で『竜神さま』と遭遇したに違いなかっただろう。
曰く、その正体は9の首を備えた多頭の竜。
森の巨樹に見紛うかという長い首を、群れなす大蛇の如くうねり、ひねらせ、海流を逆巻いて現れる者。
母リーデロットが忍び込んだ――"流刑船"は木っ端の如く打ち砕かれ、それでも彼女は諦めることなく、死んだ他の囚人の死体を浮き袋の代わりとして最果ての島まで流れ着いてきた。
母が生前と死の直前に語ってくれたわずかな情報と、その日を知る氏族の老個体などから少しずつ聞き集めた話を、細かく砕けた籠を編み直すようにル・ベリは情報を整理してきた――少しでも「その日」に何があったのかを知ろうとして。
小醜鬼の寿命は「人族」と比べると遥かに短い。
母リーデロットに聞いた"ルフェアの血裔"の長命と比べれば、わずか3年で成体まで育ち、10度目の春を迎える頃には多くが殺されるか弱って死ぬ。齢10を過ぎれば立派な"老個体"であり、その意味ではル・ベリもまた"老個体"扱いではあった。
ただし、彼は「混じりもの」であったために、その点に関しては小醜鬼達に怪しまれるということは無かった。
――それほどまでに母が己の身に施した技は、壮絶なものであった。
(あれが『竜神さま』の咆哮。あれが"海憑き"の原因か……)
伝え聞くばかりでル・ベリにとっては初めて目の当たりにする光景であったが、聞きしに勝る威力であった。
森の鳥獣に通じたル・ベリであったが、野生の獣達は彼我の力の差に非常に敏感である。『竜神さま』の終わることのない、海が降ってくるかのような咆哮に、森は生命の気配が無くなってしまったかのように静まり返っていた。
同様にまた、レレー氏族の小醜鬼達も。
あの武威で恐れられた氏族長バズ・レレーですらもが、苦悶の汗を浮かべつつ、小屋に引っ込んだままである。他のゴブリン達に至っては恐れまどい、己の小屋に引きこもることができた者はまだマシな方。
少なくない数が――"北の入り江"に向かって狂乱のまま次々に走り去っていってしまったのだった。
『最果ての島』の小醜鬼達にとって『竜神さま』が絶対的に畏れられ、そして恐れられる"海憑き"という現象があった。
それは、時折『竜神さま』に呼ばれたとして、その咆哮を聞いてしまった者が、わけもわからず狂乱状態に陥って、入り江から海に身を投げてしまうのである。
『咆哮』が収まるまで、何体も、何体もが。
それも島中、11の氏族から先を争うようにして、その数は時に数十に登るのであった。
『竜神さま』の咆哮が島を覆うと、このようにゴブリン達自身を含めて、彼らが糧とする鳥獣さえもが息を潜めて姿を消してしまう。獣達さえもが、餓えようとも、それよりもさらに恐ろしい目に遭うよりは餓死を選ぶ、と決意したかのように森から生命の気配が消え失せてしまうのである。
このため、いつしか、100年前であるか200年前であるかまではル・ベリも知らなかったが、11氏族の間で『竜神さまの生贄』を出すという取り決めが立てられた。
それを司るものが各氏族の祭司であり――時に弱々しい子供や、または年を取りすぎて足手まといになった老個体、氏族筋やその取り巻きに疎まれた者などが「生贄」として、『竜神さま』が怒りの咆哮を上げる前に、毎年決められた季節の決められた時刻に、聖地ともなった"北の入り江"から海に放り込まれてきたのであった。
レレー氏族を今襲う恐慌は、曲がりなりにも氏族の祭司であったグ・ザウが、この凶事を前に死んでしまっていたことからも、より深いものとなっていただろう。
『竜神さま』の稀なる咆哮と、海中からの顕現に、ル・ベリ自身何も感じないというわけではなかった。
鉛の刃を飲み込まされたかのような、腹の底と背筋が芯から冷える怖気を感じたのは事実であった。生きとし生ける、それこそゴブリンや、人族をも含めた生命全てが「恐れ」を抱くような何かがあの"咆哮"にはある。
しかし、そんなル・ベリの目から見ても、忘我の狂乱に陥った小醜鬼達の恐慌状態は驚くべきものであり、想像を絶するものであったのだった。
故に、ル・ベリは氏族の集落から一人抜け出すことができたのであった。
そうでなくとも、彼は氏族長バズ・レレーから、ムウド氏族への報復のための備えをするように命じられていた、という名分があったのだが。
氏族長が見ていないところで、彼に暴力的な威圧を試みる戦士がいないわけではなかったため、この混乱は好機であるとも言えた。
それだけではない。
ル・ベリは、稲妻が己の脳天を直撃したかのような天啓に襲われていた。それは、彼の中の「麗しき魔人族たる母リーデロットの子」としての部分によるものであったか。
(『竜神さま』は、確かにあそこを見ていた……"帰らずの丘"を見ていた……!)
逃げ惑う氏族の小醜鬼達を尻目に、北の入り江を一望できる物見台がわりの"はぐれ楓"に登って、ル・ベリは『竜神さま』を確かに見た。
そしてその竜貌が、島の中央の方をただ一点――『最果ての島』で最も高い、天高き木々の樹冠の枝道、葉隠れ狼達の縄張りの中央にある、一枚の大岩に注がれているのを見たのだった。
そこは、母リーデロットが今際にル・ベリに明かした「神の恩寵」があるはずの場所であった。
大いなる奔流のような何かが、母の死から十数年の時を経て訪れようとしている。
そのような天啓に襲われたル・ベリは、予定していた"外行き"を、予定もクソも無いとばかり気づけば駆け出していたのだった。
(『竜神さま』が注目するほどの"何か"が居る――"誰か"が居る――来る――降りてくる――!!)
凛と鈴がなるような、小醜鬼如きの喉では絶対に紡ぎ出せない、美しく麗しき母の声を借りた己の心話は、ル・ベリ自身驚くほどの興奮と喜びに満ちていた。
まるで、母が自分に託した何かが、何かの願いが自分の中で花開き、それを全霊で手に入れようと全身を突き動かしているかのようだった。
――母リーデロットが、己の身体の中に蘇ったかのような不思議な感覚にル・ベリは包まれていた。
故に彼の身体は『疲れ得ぬ』かのように地を駆けた。
巨樹の這い根を駆け上り、枝垂れた太枝を掻い潜った。
鳥獣の心を知るル・ベリにとっては、全てが通い慣れた道――というだけではない。
たとえ身を潜めていようとも、獣が残した足跡や踏み折った小枝が、小鳥達がついばんで落ちた果樹の全てが彼にとっての目印であった。
『其の御方』が、再び居る。
『竜"神"さま』などと小醜鬼達がいうその多頭の竜を、母リーデロットは「哀れな生き物」と言っていた。
その母をして「"神"の恩寵」と言わしめる、何かがこの島にはある。年を経るごとに感覚が鋭敏になり、母リーデロットに教わった「魔素の流れ」というものを急速に理解しつつあったル・ベリは、信仰にも近い激情の中で、その何かの気配を感じ取っていた。
――森の全てはル・ベリの庭であり、わずかな異変にも気づく才能をル・ベリは育んでいた。
だから彼は、亥象の餌場である『ポラゴの実』の群生地の1つである「赤い泉」にたどり着く前からそれらの存在に気づいていた。
葉隠れ狼よりも素早く、しかも恐るべきほど気配を消すのが上手い。しかしその研ぎ澄まされた獣性は根喰い熊よりも獰猛だと確信できた。
そのような気配の存在が無数に自分を見つめ、見下ろし、樹上から取り囲んでいることにル・ベリは気づいていた。気づいたことがル・ベリの喜びを加速させた。己の思い過ごしではなく――そして母リーデロットの言葉に嘘は無かったのだ、と。
故に。
ル・ベリは「赤い泉」にたどり着き、己を見つめる気配がますます鋭利になっていくその中で。
迷うことなく頭を垂れ、次にその5体を広げて地に平伏したのだった。
***
「畏み、畏ミ……」
森の奥から、何かに憑かれた野生児のような、ボロをまとった何者かが飛び出してきた。
走狗蟲達には、少しでも怪しい行動をしたら制圧せよ、と指示を出してあった。
"野生児"のあまりにも鬼気迫る様子が少し俺には予想外だった。
多頭竜蛇の海鳴りのような"歌"にあてられてパニックになったわけでもなく――彼の表情には心の底からの「喜び」が浮かんでいた。
まるで生き別れの家族を探して3千里、心を殺して無表情なままの旅を続けた少年が、ついに目的地に辿り着いたかのような安堵の表情。
――そして、心からの笑い方を知らない子供が、初めて「喜び」の感情によって破顔したような、笑いのための筋肉が鍛えられていない、ぎこちなくともしかし心の底から顔を歪ませたような破顔であったのだ。
すわ、狂人か? とも俺は思った。
だが、彼が話した「言葉」――を耳にして、技能【言語習得:強】が勝手に発動。
システム通知音が脳内に鳴り響いた。
――オルゼンシア語:古系統<ルフェアの血裔>を定義。習得、り、りりrつ――
――上位存在の介入を検知。習得率を100%に自動設定――
瞬間、脳内に見たことのない文様が数十種類浮かび上がった。
次にその文様が数千種類もの"組み合わせ"に枝分かれし、灰がこぼれるように砕けていく。そしてそれが済むや、砕けた粒子が次第に寄り集まり、今度は俺の分かる言葉を形成していった。
体感時間では数分ほどもあったが、現実ではわずか数秒のことであったか。
確かに、心臓に宿った迷宮核の異常な鼓動と魔素・命素の流れを感じて、脳内で映写機を振り回されたような眩暈が引いた頃には、俺はすっかりその"野生児"の話す言葉を理解できるようになっていた。
"彼"は淀むことなく、しかし喉に障害があるのか発声しづらそうに、周囲に向けて祈るような絶叫を繰り返していた。
「我、非才なれド我が尊母リーデロットに鍛えラれし身。我、"半ゴブリン"に侵されシ身なれど我が尊母リーデロットより薬師の技を授けラれた身。我、愚昧なる小醜鬼ドもに祀られシかの『竜神』ノ哀れなるを我が尊母より聞きシ身。我、我が身ヲ侵す"半ゴブリン"の呪詛に――」
音も無くアルファが俺のそばに戻り、侍っていた。
警戒と、いつでも爆発的なダッシュによって駆け出し飛びかかる姿勢は崩していないものの、その目からは攻撃性は薄れていた。
(あぁ、お前も気づいたか、アルファ、流石だな)
そんな心の声を込めてアルファを見つめる。
俺の意図が伝わったかのように、アルファは、どうしますか創造主様、とでも言いたげに俺の目を見返してきたのだった。
(そうだとも。俺は『ゴブリンを制圧しろ』と言ったからな――俺が出よう。警戒は解くなよ、アルファ。ベータ達にも顔を出させろ)
"彼"が俺達、少なくとも走狗蟲の存在に気づいていることはわかっていた。
そして、走狗蟲達に向かって――その言葉を繰り返し、身の上を詠ずるように語っていることは、たった今強制的に"習得"させられた『オルゼンシア語:古系統<ルフェアの血裔>』から、嫌というほどわかった。
こちらが聞く前から「ル・ベリ」という名であり「リーデロット」という名の母がいて、「この『最果ての島』の『レレー氏族』」に属する身である、ということも、神仏へ奏上する祝詞のような、畏れのこもった格式高い言葉で濤々と詠じているのも、よくわかった。
――だからこそ、俺は1点気になることがあった。
【情報閲覧】によって表示された彼の『種族』を表すウィンドウを視界の隅に見やりながら、恐縮して五体投地状態になっている、その小さな、まるでゴブリンのような汚い"野生児"をまっすぐに見つめながら、立ち上がって姿を現して見せてやって、こう告げたのだ。
***
「なんで"ゴブリン"を自称しているんだ、お前」
目の前で雷光が炸裂して竦んだかのようにル・ベリはハっと顔を上げた。
「背中は曲がっていて、コブがあるし、肌も浅黒い。ずんぐりと筋肉質で小柄……なのが、弱い個体なのか、痩せっぽっちでいる。背はゴブリンの中では高い方なんだろうが」
記憶の中にある母リーデロットのものよりは、落ち着いた低い声。
――もし自分に"本当の父"がいるとしたら、きっとこんな声だったのかもしれない、と思うような声。
だが重要なことは――その御方がオルゼンシア語を、粗忽なる小醜鬼達には絶対に不可能な、麗しく美しき言葉を淀みなく口にしているということであった。
そしてさらに重大なことが告げられる。
「――だというのにお前は、小醜鬼ではない。『ル・ベリ』と名乗った"魔人"よ、お前は何者だ?」
ル・ベリの中の十七年。
あるいは、母リーデロットが自分が生まれるよりも遥か以前から積み重ねてきた、想像もできぬ時間が一気に決壊したのは、その時であった。
生まれたばかりの小醜鬼の赤子のように、ル・ベリは嗚咽し、鳴き声を抑えることができなかった。
母との問答が蘇る。
『ならばどうして――こんなにも痛いことをするのですか。どうして、そんなに涙を浮かべて、自分にそうしているのですか』
この御方には、それがわかるのであった。
それがこの御方には、当たり前であり何でもないことなのであった。
喉を潰されたことも。
【異形】の成長を"せむし"として抑え込まれたことも。
手足の骨を弛められ、母の如くに高い背に育つはずだった身体を歪められたことも。
――小醜鬼達に決して知られてはならない秘密を。
知られれば愛する息子が、その慰みものとなり餌食となるその絶対の秘密を。
この御方は、ただの一瞥でそれを見抜く力を持っている。
母様は正しかった。
母様の言う通りであった。
『根喰い熊』に睨まれた『まだら長角鹿』のように、ル・ベリは硬直していた。
すると、自分をずっと見つめていたいくつもの気配が、樹上から1体また1体と降りてきたことがわかった。そのうちの何体かは、ル・ベリの視界にも入った。
――見たことも無い"魔獣"であった。
『最果ての島』に住まう、他のどのような生物とも異なる、としか言いようが無かった。
それでも、鳥獣を調教する才を持ったル・ベリは、その生物の異様に盛り上がった強靭な後ろ足と、足の半分ほどの大きさもある跳ねるように湾曲した鋭い爪の存在に気づく。それが、ゲ・レレーやグ・ザウを抹殺した武器であると、獣調教師としての観察眼が告げているのであった。
異貌の獣達のうち、御方のすぐそばに控えていた1体が、まるでル・ベリに答えを促すかのような咆哮を上げた。肉を引きちぎりながら震わせる、聞く者に何か根源的な部分で恐怖を催させるような"おぞましき咆哮"は、『竜神さま』のそれとはまた異なっていた。
だが、ル・ベリはそのような凶獣を手懐ける御方に、竜神さまとは異なる真の神性を見た気がした。
ル・ベリの中の母リーデロットが、平伏せと、今なお息子に助言をくれているかのような心強さすら感じていたのであった。
「……畏み、畏ミ」
目の前の御方に、ル・ベリは、その望むままに己の秘密を打ち明ける。
「我が尊母リーデロットの深慮ニして、我が身ヲ卑しく浅ましキ小醜鬼どもの牙ニ掛けぬタめ……我が尊母は、我が身を"半ゴブリン"の身へト偽り装ウたのでス。我が骨ヲ砕き、我が肉ヲ刻んデ……」
***
聞いてみれば、呆気ない。
言葉にすれば、単純だ。
だが、その言葉に込められた悲壮さと凄絶さに、俺は沈黙した。
――驚いた表情や、同情した表情は作らず、ポーカーフェイスを維持したまま。
今、『ル・ベリ』が求めているのはそういうものではない、と気づいていたからだった。
そこで初めて俺は小醜鬼という存在に、本当の意味で興味が湧いた。
あるいは、こんな話を聞かなければ調べようという気も起きなかっただろう。
そして闇世Wikiを開いて――別の意味で、納得した。
そこにはただ一言。
『見つけ次第滅ぼせ』
という記述だけがあるのであった。
【闇世】は【全き黒と静寂の神】が、己に付き従う人族を導くために力技で生み出した、シースーアの中の"異界"である。
そこに逃げ込んだ人族は、与えられた様々な恩恵の力もあったが【闇世】の厳しい環境に適応し、"ルフェアの血裔"と自らを名乗る種族となった。当然、彼らが神々の争いにおける【闇世】側の主戦力となっており――迷宮領主となる者も基本的にこの種族である。
そんな彼らにとっての、戦略級の情報共有手段であった闇世Wikiに、このような物騒なことを書かれているとは何事であるか。
目の前の"半ゴブリン"――に偽装されたことといい、つまり、小醜鬼達は魔人族から抹殺と浄化の対象とされるほど憎悪されるような「何か」を過去にやらかした、ということだろうか。
――あるいは俺もまた迷宮核によって、ルフェアの血裔に一部身体を作り変えられていることから、小醜鬼への何となくの不快感と忌避感を部分的に植え付けられたのかもしれない。
だが、ゴブリンに酷い目に遭わされないように息子をゴブリン化させるという狂気の手術を成し遂げたル・ベリの母リーデロットとやらは、さらに聞けば"大陸"から『流刑船』に乗って、この島に流されてきて生き延びた"ルフェアの血裔"らしかった。
そしてあの強大な『竜神さま』を"哀れな生き物"と言い放ち、さらに死の直前にル・ベリに対して、俺のような存在が現れるか、または神の恩寵がこの島にあることを示唆して死んでいった。
――どうも、俺が想像した以上に、この『最果ての島』と、そして目の前の哀れにもゴブリン化させられた少年ル・ベリには、込み入った事情があるらしかった。
ベータがおいコラァと言わんばかりに、鼻先をぐりぐりル・ベリに押し付けていびっている。本気ではないじゃれている様子ではあったが、ル・ベリは恐縮してなされるがままに五体投地を続けていた。
アルファが、俺の判断を促すように見つめてきた。ガンマ以下も同様に俺の一挙手一投足を見守っているようであった。
「俺が、お前の母の言う"救い主"かどうかは、俺にはわからない。だが、お前の母が言うような"神の恩寵"とやらを手に入れたのが俺だというのは確かだ、賢きル・ベリよ」
長い思案を演じてから、俺はル・ベリが求めていたであろう、もったいつけた威厳を持った感じの話し方で答えた。
「賢きル・ベリよ、そしてその賢きル・ベリを産んだ賢きリーデロットが亡くなったことを俺は悼もう。彼女には、俺もまた色々と聞いてみたかった」
これは本心でもある。
迷宮核は、知識の宝庫でありまた現在の俺の有り様を定める急所のような存在でもあったが、この世界で生きるための常識であるだとか、生きている者としての考え方を助けてくれる類のものではなかった――迷宮を生み出すための兵器、システムの側の存在なのだった。
この世界で俺がどのように振る舞い、何を成そうというにしても、この世界に生きる『協力者』は必要だったのだ、少なくとも、今は、まだ。
――そんな理屈で俺は俺自身を納得させた。
――そしてそんな俺の自己欺瞞を、幻聴であるに過ぎず、追憶の中にしかいないはずの少女は、鋭く見抜いてくるのであった。
――せんせ。私には何でもお見通し。見過ごせないんだよね、見ていられないんだよね?
あぁ、そうさ、■■■。
その通りだ。
自分を偽り続け、しかも偽らされ続けてきた、押さえつけられ、自分が何者かを問うこともずっと封じられてきた、そんな彼らを俺は何人も知っていたからだった。
だって、お前もその一人だったろう? ■■■――。
古い記憶が白昼夢と入り混じり、認識する世界そのものが白い霧にまみれてかき消えてしまいそうな幻覚を感じる。
しかし、今目の前で俺を、よりにもよってこの俺を、そういう柄からは程遠い存在――"救い主"――などとのたまう、小汚く痩せて、心身ボロボロになり、しかし執念にも近い意思だけは絶やさぬ――絶やすことを禁じられた少年がいたのだった。
見過ごしちゃ、いけないだろう?
彼が望む者を、多少演じてやったって、バチは当たらないだろう?
だから、俺はこう続けたのだった。
「――お前が、お前の母の代わりに俺に"この世界"について教えてはくれないか? ル・ベリよ。俺はお前に報いるだろう」
三度、雷に打たれたようにル・ベリが顔をはっと上げた。
そして己の両手を見やり、両手で顔を覆い、しかし目だけは指の間から俺に注ぎ続ける。そして、絞り出すような、まるで言葉を覚える前の霊長類が母音だけを必死に絞り出すような震えた声を上げ続けるのみだった。
そんな俺の問いかけに対するル・ベリの「答え」は、違う形で知らされた。
――迷宮従徒志願者を検知。種族:人族<純種:ルフェアの血裔>――
――この者の迷宮従徒化志願を受け入れますか?――
眷属や施設を生み出すだけが迷宮領主ではない。迷宮領主は、迷宮の外部の存在であっても、その者がそうなることを望めば迷宮従徒として受け入れることができる。
迷宮従徒は迷宮領主との間に迷宮眷属に準ずる強い繋がりを与えられ、またその力の一部を共有される権利を得る存在であった。
……これが単なる小醜鬼であったならば、まだ俺も躊躇したのだったが。
情に流されたわけでもない。
打算もまたあったのだ。ル・ベリは、今の俺にとって貴重な『人材』であることは、あらゆる状況に鑑みて、疑う必要の無いことであった。
俺はそう自分を納得させた。
――それでいいんだよ、ま■■せんせ。
――――――
「畏み、畏ミ……恐れ多くモ、恐れ多くモ、御方様のゴ尊名を。御方様の、ゴ尊名ヲ知る栄誉ヲ、賜リたく……」
――――――
あぁ、そういえばそうだったな。
「この世界」に来てから俺は、ずっと「ああああ」ですらなく、ただの「名称未設定」だった。
自嘲と共に、そんなことをぼんやりと考えた。
軽く頭をひねってから、俺は自分の人間だった頃の名前を思い浮かべる。
確か漢字で書くと、■■■■■。
平仮名で書くと、■■■■ま■■。
お揃いだね、とその少女が言っていた気がしたのだ。
そこにある願いが込められていて、それが彼女の何かと一緒だったような、そんな気がしたのだ。
正直、嫌いな名前だった。
とても男の名前に使う文字じゃない、と小さい頃は思っていたし、からかわれたこともあったような気がする。
だけれども、俺自身は、そこにどんな己を見出していたのだろうか。
奪われ失われ、しかし■■■のせいで1文字だけ「ま」と浮かんだ部分を、俺は頭の中で反芻していた。
「名は体を表す」という。
「地位が人を作る」ともいう。
「人が人を作る」ともいう。
俺はこの世界で迷宮領主となってしまい、そして少年ル・ベリにとっての"救い主"になってしまった。
その名前を、この世界で名乗る意味は、あるのだろうか。
愛着のある名ではあった。
■■■との最後の繋がりの一つであるかのような、大事な名前でもあった――気がする。
だが、奪われた名前をいつ取り戻すことができるのか、その必要があるのかも、今はまだよくわからない。
それでも俺は、迷宮領主にして『異人』にして【客人】であり、そしてそこに"救い主"が加わってしまった俺には、今は「名前」が必要だった。
新しい環境に、新しい世界。
新しい能力に、新しい役割。
新しい願望と、ただ一つ変わらぬ願望。
名前がその者の"本質"を表すというならば、今の俺の"本質"は何だろうか?
また、この世界に迷い込む以前の俺の"本質"は何だったろうか?
そして、過去の名前は現在の俺の"本質"たり得ただろうか?
「ま」。
ただの口唇破裂型の子音だ。
音でしかない。
それが構成していた「漢字」すら思い出せていないので、この1語だけでは何の手がかりにもならない。
だからここから派生させよう。
ま。
マ。
剣と魔法。
MIND。
大事な「ま」。
大事かもしれない「ま」。
大いなる「マ」。
これはきっと俺に必要な通過儀礼だった。
俺には対峙するべき過去があって、迎えるべき現在があり、備えるべき未来があったのだ。
何のことはない。
焼け死んだと思って、異世界に、異様な別世界に辿り着いたと思っていたが、変わらないものは変わらないのだ。
俺には成すべきことがあった。
それを成すためになりたかったものがあって、なることを挫折したものがあって、しかしそれでも抗って成そうとしてきたことがあったのだ。
これは新しい始まりであり、そしてまた続きであったのだ。
「我が名は、」
1つ白状しよう。
俺は、死んだ大学の先輩が、✕✕✕先輩がずっと羨ましかった。
あの人みたいになりたいな、と思っていたのだった。
現代の侍のような、超然としたあの人のあり方が。
眼鏡の奥に鋭い眼光を秘めて、曖昧に笑って、和装で胡座かいてタバコを吸う。
あんな風になってみたかったのだ。
――それができなかったから、浮かれて、イノシシのように突っ込むことしかできず、あんな結末を迎えたはずだった。
『なぁ、マ■■。限りなく精巧に作られた造花は、本物だと思うか? 偽物だと思うか?』
迷宮核によって"ルフェアの血裔"という種を混ぜられた。
その影響によって【強靭なる精神】という、俺自身を苛み続けてきた、落ち着かない心があっさりと抑えつけられてしまった。
――だが、それでもまだ足りない気がしていたのだった。
単に「強靭」なだけでは、超然たるには、未だ至らない。
平穏には、未だ至らない。
だから、こうしてみよう。
【超然と見据え心動じぬ者】
今度こそ、自分ができることを全てやってみたい。
どこまでも突き抜け、行くところまで貫き通してみたい。
その先に、成せなかったことが続いていると信じて。
そんな願いを己に込めて、このように名乗ることとする。
聞くがいい、少年ル・ベリよ。
俺を"救い主"に変えたのは、お前だ。
「オーマ」
――新たな称号の獲得を検知。称号【超越精神体】を定義――
――称号の取得により技能点を3点獲得しました――
***
この日、『最果ての島』の小さな歴史が一つ変化した。
あるいは「彼」が現れなければ、"半ゴブリン"ル・ベリは島の統一者としてゴブリン諸氏族に記憶され、そして時の流れに風化されていくに終わったかもしれない。
反骨なる者にして、母を想う者としてのル・ベリの物語はここで終わり、「彼」の最初の迷宮従徒としての【魔人ル・ベリ】は、今ここの場より「彼」の物語に合流することとなる。