0009 反骨者は母を想う[視点:半魔]
かつて母様は、こう言った。
『あなたは私の最高の宝物。私が私として生きて、抗った証そのもの』
ならばどうして、あの醜悪な生物どもに嬲られることには抗わなかったのですか。
ル・ベリという名前の彼はその言葉を飲み込んだ。
生涯でただ一度だけ「リーデロット」という名を明かしてくれた、母リーデロットが決して屈さぬ眼差しで自分を見つめ続けていたからだった。
またある時、母様はこう言った。
『あなたは私のたった一つの成功。あなたが生き延びてくれれば、私がしてきたこと全てに意味がある。だからあなたを守るために、私は私が学んだ全ての技術を注ぎ込むの』
ならばどうして――こんなにも痛いことをするのですか。どうして、そんなに涙を浮かべて、自分にそうしているのですか。
ル・ベリという名の彼は、幾度となくそんな言葉を飲み込んだ。
『あなたは私の唯一の映し身。あなたを見て、私は、かつての私がどんな姿だったか知ることができた。生まれてきてくれて、ありがとうね』
ならば、ならば、何故。
あなたは自分に――死を与えるように懇願したのですか。
***
嗚咽のような叫び声とともに、ル・ベリは跳ね起きていた。
そして遠い、もう春と冬が10回も入れ替わるほども過去の記憶を夢に見たことを知る。
――ッ!
涙に混じって砂の味を感じ、げぇげぇと口の中のものを吐き出した。
身をよじり――後ろ手に両足まで縛られた体勢で、満足に寝返りも打てぬことを思い出して、恥辱と怒りにまみれて歯ぎしりをした。
「夢カ……母サま……」
酷く汚い発音、しゃがれて聞くにも耐えない、歪んだ喉笛から発せられる歪んだ声色。
それが自身のものであるとル・ベリは気づいて――夢の中で母リーデロットが朗じた"正しい"発音が耳に残っていたのだ――さらに激しく顔を歪めた。
眼前の、泥まみれの粗末な木皿とその上の干からびたナメクジの死骸が目に入り、怒りを抑えられなくなって歯を食いしばった。
『クエ、混ジリ野郎! 母親ユズリノ軟弱ナ歯ジャ噛メナイダロウケドナ!』
嘲笑と共に差し入れてきた輩の喜色が目に浮かび、歯茎から血が吹き出て口の中が血の味でいっぱいになるほどまでル・ベリは歯ぎしりをしていた。
硬くてしなやかなナヅルの木の蔓で、屠殺前の鹿のように両手足を縛られ、土牢に放り込まれてから、ル・ベリは日が3度沈むのを数えた。
――未だ『竜神サマノ生贄』にされていないところを見ると、自分は殺されるわけではないらしい、とかろうじて判断された。
いきり立った連中に殴る蹴るの暴行を散々に受けたが、その傷も多少は癒えてきていた。
罵倒と暴行しか能の無い連中ではあったが――それでも彼らをまとめる"氏族長"は、まだ多少は物を考える頭があったということだ。かろうじて、ル・ベリの「功績」と「腕前」を思い出して、両手足を縛ったまま海に放り込むことは思いとどまったということだろう。
(『小さき醜き鬼』の分際で……憎い、あぁ憎い……)
彼が心の中で呟く声色は、しゃがれてもおらず、また歪んでもいない、亡き母リーデロットに生き写したかのような凛とした声のままであった。
(全部、あの卑劣で卑怯者でどうしようもなく卑しい、グ・ザウの野郎のせいだ。それから、同調しやがった脳足りんのゲ・レレーのボンクラのせいだ)
己をこのような状態に追い込んだ、憎い2匹の名を顔を思い浮かべた。
(成功するまで何年も何年もかかった。やっと母様の願いを――叶えるチャンスが、やっと巡ってきたんだっていうのに……肝心のところで邪魔しやがって、あいつら……絶対に、許さない。絶対に)
ル・ベリは絶海の孤島――母は『最果ての島』と呼んでいた――に住まう、11の『小醜鬼』の氏族の一つである『レレー氏族』に属する"半ゴブリン"だった。
『ルフェアの血裔』という誇り高く美しい種族であるという母リーデロットは、海を隔てた"大陸"という場所の出身であり、事情があって、海を越えて流れ着いてきたのが17年前。
それからほどなくしてル・ベリが生まれた。
父親は『小醜鬼』のうちの誰か。
まだ幼かった頃には、母リーデロットの言うことの意味がよくわからなかったが、小醜鬼にとって『ルフェアの血裔』は"極上の獲物"であるらしく、夜、引き離されて母が連れて行かれることは幾度もあったのだった。
そうして生まれたル・ベリを、小醜鬼達は「混じりもの」だとか「半血野郎」などと呼び、散々な虐待を加えてきた。
母リーデロットが死んでから、それはますます激しいものとなったが――リーデロットがル・ベリに遺した「技」が、ル・ベリにとっての転機となった。
それは広範な動植物に関する知識と、観察眼。そして医療の技術であった。
周辺の氏族との争いが激しいレレー氏族では怪我をする者が絶えず、また生まれたばかりの赤子も死亡率が高い。しかし、リーデロットの薬草の知識と医療の腕をル・ベリが受け継いでいることが知れわたるや、罵倒や嘲笑や嫌がらせは無くならずとも、露骨な暴行や喧嘩を売ってくるような行動は減ったのであった。
それから数年でル・ベリは「薬草収集」の名の下に、独自に外出する権利を勝ち得た。
そして母から学んだ観察眼を活かして、島に住まう様々な獣の調教を試みていたのであった。
ル・ベリからすればそれは、母の最後の願い――それを叶える"力"を手に入れるために、島の探索を行う活動の一貫であった。しかしその過程で、長い期間の努力が実り、島では最大の巨獣であり狩れれば一ヶ月は氏族が餓えないとも言われる『亥象』の餌付けに成功していたのだった。
かつて、母リーデロットが言っていたことには、野生の獣を手なづけて飼いならし、交わらせて育てて肉とする術が大陸では当たり前であるという。さらに使役して、重い倒木や岩を運ぶというやり方もあるとのことだった。
亥象に先立って、ル・ベリは既に何体もの鳥獣を飼い慣らすことに成功しており、狩猟部隊の連中からは疎まれつつも、医術の腕と合わせて氏族内でも徐々に一目置かれるようになっていたのだった。
亥象の牙は武器にも装飾品にも良く、長い体毛の毛皮は分厚くて冬を越すのに最適。肉の量は言うに及ばず、薬効のある『ポラゴの実』を偏食したその体液は薬の材料になり、また"骨"は島で最も凶暴な野獣である『根喰い熊』の好物であるため、それを避けるのに有効活用できる、捨てるところ無しの存在だった。
ただし、長大で棍棒よりも重い一撃を加えてくる長鼻が危険であり、一頭狩ろうと思えば、レレー氏族の戦力であれば、成年の雄が10匹は必要。それでも2、3匹が死ぬか大怪我を負う、難敵であった。
飼い慣らすための鍵として、ル・ベリが使ったのは『夜啼草』の花弁であった。
亥象の好物である『ポラゴの実』の果汁と混ぜることで、酩酊状態を引き起こす効能があったが、ル・ベリはそれを利用した。亥象の警戒をかいくぐって餌付けすることができる距離まで近づく手段として、であった。
そして根気強く手懐けること1年。僥幸にも恵まれたことであったか、その手なづけた亥象が仔を産んだのを機に――ル・ベリは「亥象の家畜化の可能性」という大成果を、レレー氏族へ持ち帰ったのであった。
だが、そんなル・ベリの活躍に嫉妬する者があった。
氏族唯一の祭司であったグ・ザウである。
彼は母リーデロットが死んだ2年後に、小鬼術士を島で最も多く擁するシャガル氏族から追放されてきた"流れ者"であった。何やら、己の師匠を激怒させるような失態をやらかしてのことらしかった。
しかし、レレー氏族には小鬼術士は十数年来誕生しておらず、また、長男ゲ・レレーは乱暴者のぼんくらであっても、氏族長たるバズ・レレーは、一応はル・ベリに目をかけたことからもわかるように、使える者は使う、という頭はある小醜鬼だった。
シャガル氏族の活発な活動を前に、グ・ザウをレレー氏族の祭司に取り立て、相談役のように重用するようになったのであった。
母リーデロット譲りの観察眼でル・ベリが十数年来観察してきたところ、小醜鬼の社会では単純な暴力が尊ばれる。力の強い者が氏族を率いる地位につくことが当たり前であり、老いて力が衰えれば追い落とされるのが常であった。
レレー氏族などはまさにその典型であると言えたが――唯一の例外が祭司と、それになることのできる資質を持つ小鬼術士という存在であった。
絶海の孤島である『最果ての島』において、小醜鬼達が最も恐れ、そして畏敬する存在があった。それは力と暴力を尊ぶゴブリン達をして、絶対に怒らせてはならず、逆らってはならず、求められればその身をただちに"海へ投げ打つ"必要がある、絶対的な存在であった。
『竜神さま』と呼ばれるそれを、ル・ベリはまだ直接己の目で見たことはなかった。だが「生贄」として、何匹もの雌や子供や老個体の小醜鬼が、縛られて「北の入り江」の方に連れて行かれるのを季節ごとに見たことがあった。
集落の長老曰く、『竜神さま』の怒りを鎮めるために、いがみあい争い合う11氏族が唯一協力して行う「儀式」がそれである。季節ごとに各氏族の輪番で、『竜神さま』への「生贄」として、生きた小醜鬼を捧げるのだ。
そしてそれを司るのが各氏族の祭司の役割であり、"聖地"である「北の入り江」に訪れることができる者は、氏族長筋や祭司の他には、ごく限られていたのであった。
『最果ての島』の小醜鬼氏族の中で独自の立ち位置にある祭司であったが、とりわけ武闘派であるレレー氏族では、軟弱者として馬鹿にされる傾向が強かった。
しかし、狡猾なるグ・ザウは『竜神さま』を利用することがいかにレレー氏族にとって他の氏族を征服するのに役立つか、についてバズ・レレーに甘言して、今の地位に収まったのだった。
ちなみにル・ベリは、母リーデロットに『竜神さま』について問うたこともあった。
母は――『竜神さま』が何者であるかを知っていたようであり、まるで哀れむかのように、こう述べただけだった。
『護るべきものを無くして、生きる意味も失った、哀れな生き物よ、あれは』
だが、ル・ベリがまた別の時に聞いた話では――母は「北の入り江」で、粉々に砕けた無数の木の板に揉まれるようにして、レレー氏族に発見されたということだった。それをル・ベリに聞かせた、今は亡き老ゴブリンのガジ・ムシャイは、お前の母は『竜神さま』の怒りに触れてああなったのだ、だが気に入られたから生き残ったのだ、とよく言っていた。
ガジ・ムシャイの死後に、ル・ベリがそのことを母に告げた時、母は「船」という木の板を組み立てて海に浮かべて移動する乗り物に乗ってこの島まで逃げてきたと言ったのだった。
その話がずっと印象に残っていたため、ル・ベリはいつしか『船』を作って、母リーデロットの故郷である"大陸"へ行ってみたいという夢を抱いていた。それは母に願われたことではなく、ル・ベリ自身の秘めた"夢"であった。
そして、その夢に向かって、文字通り砂を噛むような日々を耐えて重ねてきた努力を、グ・ザウは己への挑戦だと受け止めたらしかった。
グ・ザウは、大柄な体格だけが取り柄のゲ・レレーをそそのかし――ル・ベリが餌付けして連れ帰ってきた、亥象の仔を殺して、手下達と共に宴に供してしまったのであった。
そんな、あまりにも愚かで、短絡的なゲ・レレーの行動にル・ベリが憤る間も無かった。
我が仔を殺されたことに気づいた母亥象が現れて大暴れし、氏族の集落を半壊させてしまったのだった。
少なくない死者が出た上に、その母亥象もまた逃げ去ってしまった。
してやったり、とグ・ザウは責任はすべて「災いを運びこんだ」ル・ベリのせいだと叫んだのが4日前のこと。
斯くしてル・ベリは今こうして、土牢へ放り込まれていたわけだった。
だが、グ・ザウの暴挙はそれだけに留まらず、彼はル・ベリの成果を全て壊す気でいたのだった。
『逃ゲタ"災イ"ヲ討チ取ッテ来テヤル!』
などと喜色を浮かべた醜い酷薄な笑みでル・ベリに言い、手当たりしだいにル・ベリの薬草やら道具やらを奪い取って、ゲ・レレーとその手下達をまたもそそのかし、狩猟に出かけていったのだった。
連中など皆殺しになってしまえばいい、とル・ベリは歯ぎしりしながら、憎んでいる小醜鬼達が乗り移ったかのような笑みを浮かべた。いくら小鬼術士がついているとはいえ、5匹では亥象狩りにはあまりにも無謀な数だった。
決して、ル・ベリがグ・ザウを過小評価しているわけではない。そうではなくて、グ・ザウとゲ・レレーが、逃げたボアファントの恐ろしさを過小評価しているのだった。
――小醜鬼などみんな死んでしまえばいい。
母リーデロットが死んだ日から、それはル・ベリの心に宿った執念のような、身を焦がす強烈な憎悪であり――そしておそらくは、母を失った寂寥を裏返したものだったのだろう。
だが、ル・ベリには母が死んだ時も、そして今も、まだ己のその感情が理解できてはいなかった。
そしてより正確には、その憎悪は母リーデロットが死んだ日に宿ったものではなかったのだった。
ならばどうして――こんなにも痛いことをするのですか。どうして、そんなに涙を浮かべて、自分にそうしているのですか。
夢に見た幼い己の声は、まるで今のル・ベリに向けられていたかのようだった。
半ゴブリン、ル・ベリ。
半ゴブリン――ということにされている、リーデロットの息子ル・ベリ。
ゴブリン達ほどは濃くは無くとも、しかし浅黒い彼の皮膚。
齢17でありながら、ゴブリン達とさほど変わらぬ小柄な身長。
そして、母リーデロット曰く「人間を模した害獣」である、ゴブリンの舌のような歪んだ声。
ル・ベリは、まだ、己がどうして「半ゴブリン」であるのかを知らなかった。
彼はただ、グ・ザウもゲ・レレーも、レレー氏族のクソ劣等生物どもなど、みんな死んでしまえば良い、と凄絶に笑い続け、血を滴らせるように歯ぎしりし続けていた。心の中で尽きることの無い呪詛悪罵を吐き続けているのだった。