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「理想郷としての風の谷」を考える (風の谷を創る考①)

  最近はシン・ニホンの読書会に参加していることもあり、本書で語られる「風の谷を創る」という運動論についてよく考えている。何のことかわからない方は該当部分だけWeb記事に載っているので、是非下記を読んでみてほしい。

考え始めたきっかけ

 元々面白い村的な暮らしを作りたいなと思い、地域に暮らして6年にもなる。そうするといい所もいやな所も含めて色々と見えてくる。何となくのイメージで自然は美しいとか残そうとか、ありふれた人工物は美しくないからなくそうという発想に終始してしまうと、今度は不便だったり自身の暮らしが草木や虫、天候、動物等に脅かされてしまう。そうならないために日々管理が必要だし、不格好でも効率的な物を用いないといけないことも多い。
 「風の谷を創る」運動は宮崎駿監督の不朽の名作「風の谷のナウシカ」からきているそうだが、実際に「風の谷のナウシカ」を見直して実際にあの谷で暮らすとしたら、どんな所が魅力的でどんな所が幻滅するところなのか、「理想郷としての風の谷」というテーマで考えてみようと思う。
 あくまでシン・ニホンで語られるのは「運動論としての風の谷」なので、別に作品で語られる風の谷そのまま模倣するわけではないだろうけれど、目指すべき理想郷を妄想するために現状のイメージとのすり合わせを勝手にやってみようと思う。基本的に映画を見ている前提で書いています。

「理想郷としての風の谷」(映画版)

 ということで「風の谷のナウシカ」を自分が暮らしたらどう思うかと考えて見直してみた所、感じる事が結構多かったので書いてみる。物語上の都合であったり作品としての魅力や面白さを上げるために表現されている箇所も多いだろうけれど、敢えてリアルな感じで批評してみる。

風の谷の成り立ちと腐海
 1000年前の大戦(火の7日間)によって文明が崩壊し、錆とセラミックに覆われた世界、腐海に覆われた世界で生存領域を脅かされ虫や胞子に怯えながら生きている。腐海の出す胞子は有毒でマスク無しには5分と生きられない。しかし腐海には底知れぬ魅力がある、人間不在の生態系が織りなす自然環境、色とりどりの苔や、危害を加えない限り人間など意に介さない生物、地下空洞の化石の木、「風の谷のナウシカ」の世界観における一番魅力的な所は人知を超えた生命の神秘が作る腐海の魅力に終始するように思う。

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公式HPより
https://www.ghibli.jp/works/nausicaa/#&gid=1&pid=2

風の谷の食事
 劇中にはあまり食事のシーンは出てこない、ぶどう棚が出てきたり、チコの実、ジャガイモらしきものが積んであったり、それくらいである。風の谷では茶畑のような畑はあるがどんな食料を作っているのかはイマイチわからない、騎乗用のトリウマなどは飼っているが、食用の家畜は育てていないようだ。副音声で原画担当の庵野秀明さんと、演出担当の片山一良さんがナウシカの上映を見ながら対談するというのがあったのだが、宮崎駿監督があまり食事を楽しむタイプじゃないからなんて話があって面白かった。

風の谷のコミュニティ
 人口500人程度の風の谷はゆるやかな王政を強いているようだ。ただし王族が特権階級を持っているという感じではなく皆に象徴やリーダーとして慕われているような感じだ。どちらかというと村長や部族の長というほうが近いのかもしれない。特に気になるのは行動力のある若者が少ないなという所、軍隊に責められたとき対抗するのがナウシカや基本旅人のユバ様くらいなのは少し寂しい。ナウシカやユパ様不在の際に先走って戦いを始めたり、王族のカリスマで保っている所は多そうだ。また服装の色が違うが基本的に同じような恰好をしている。

風の谷のエネルギー事情
 風の谷には風車が多数配置されているが、どんな機能だろう。地下深くから水を汲んでいるという設定から地下水の汲み取りの機能だろうか。また小麦的な作物が取れて加工のために機能しているのだろうか。電気を使う機器を用いている雰囲気はあまりない。しかしながらガンシップや火炎放射器など武器を保有しているので、燃料や火薬などの資源についてはある程度保有しているようだ。

自然との共生や信仰
  ナウシカはオームとの対話をするために徹底的に身を挺していく、一方で風の谷の人々は姫の帰りを待ち続ける。兵士たちは一向に打開策が見いだせない状況を見て逃げ出そうとする。
 谷のこどもの「ババさまみんな死ぬの?」という問いかけに対して「定めならね従うしかないんだよ」という大ババ様とそれに従う谷の人たち、一方でクシャナの方は今使わないでいつ使うのだ?と巨神兵を途中ながら復活させてでも立ち向かおうとするのは対局的だ。結果的には巨神兵の攻撃などではオームの進行を止められず、身を挺してでも対話しようとしたナウシカのおかげでオームの怒りが静まり、風の谷の人々やトルメキア軍の全滅は免れる。
 実はここは凄く難しいなと思う所で、ストーリーや結果的にナウシカや風の谷の住人に共感してしまうが、実際はどうなのだろう?「困ったときの神頼みや自然頼みで生きるも死ぬも委ねる」より、「人間の作り出した破滅的な力を用いたとしても生き延びようとすること」の方が生存確率は上がるだろうし、私自身もそっちの方が本質的な共感がある。ただ巨神兵を核兵器のような人類に破滅をもたらす兵器だとしたら、そんなものを使ってまで生き残るべきではないというのも理解できる判断なのかもしれない。

外交についての課題
 序盤から風の谷に巨神兵を載せた飛行機が墜落し、軍事国家であるトルメキアに攻め込まれるのだけれど、ここに風の谷の脆弱性がある。自然と共生してゆるりと生き延びる事が出来たとしても、人間世界の情報収集し外交を結ぶか、武力を持たねば一方的に奪われる可能性がある。ただここにコストをさいてしまうとなると風の谷の暮らしは少しずつ壊れていくように思う。独立国家として風の谷が存続しているが、小国である以上やはり大国からの要請や事情に沿って変化を強いられることもあるだろう。これは結局都市と地域の関係にそのまま当てはまっていくように思う。

風の谷の魅力
 ここまで書いてきて率直に住みたいかと言われたらあまり住みたいとは思えなかった、ただたまに遊びに行くならとても魅力的な場所のように思える。これはたまに田舎に住むのはいいけれどやっぱり都市の方が刺激的で楽しいという感覚に近いのかもしれない。でもそれでは「都市集中型の未来に対するオルタナティブ」としての場所としては弱い。
 そもそも原作における風の谷自体、文明や都市を知る者たちが都市に対してのオルタナティブとして作ったわけではなく、崩壊後の世界で生き延びた人たちがたまたま行きついて作った住処というイメージなので前提が大きく異なる。という事で「風の谷を創る」運動論を通じて出来る風の谷は既存のビジュアルイメージとは大きく異なっていくだろうと想像している。

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理想郷としての風の谷(漫画版)

 そういえば漫画版があるよなという事を思い出して、改めて漫画版も購入して読んでみた。原作が漫画で映画になっているのはそのほんの一部だという事を知って、ちょっと驚きながら読み進めてみた。読んでる前提で書いてるので重要なネタバレ含みます。

より悲惨な状況が描かれる
 映画版は壮大なファンタジー作品でその独自の世界観やそこで生きる命の美しさの方にフォーカスされていたように思うが、漫画版は結構凄惨な戦争ものという感じだった。
 腐海と共に生きる為に進化した暮らし、世界観にあった数々の道具や乗り物などへの緻密な設定、世界が滅びかけているのに争い続ける人間達や、それを止めようとする大きな意思、よりサイエンスフィクションよりになっているというイメージだった。念話や幽体離脱的な事が結構当たり前に出来たりする辺りはファンタジーだが、後半からは非常に示唆を富む内容になっており手塚治虫先生の「火の鳥」イズムをちょっと感じた所だった。

衝撃的で解釈の難しいラスト
 そもそも腐海やその生態系自体が人間によって作り出された有機的な浄化システムであった。いつか地球環境が清浄になった時のために、当時の生態系や文化などが残されている、そして聡明で心優しい人達だけがその楽園に住まう事が出来るとされている。さらにナウシカ達は実は既に汚染された世界にある程度適応できるように改造された一族の生き残りであり、腐海が清浄にした世界では生きられないらしい。そのシステム全体を司っているのは既に肉体を失って概念的な存在となっている1000年前の文明人の意思。1000年前の文明人はこの作品における旧世代の叡智を牛耳っており、不死化の技術や菌の栽培技術、超能力的な力も操る。汚染に適応して清浄な世界で生きられなくなった人達を元に戻す力さえあるらしい、そんな彼らにとって戦争や命の奪い合いさえも彼らにとっては大した問題ではなかった。その時々の権力者と繋がりを持って世界を観測できればよいだけだったのだ。

ナウシカの選択と未来
 しかしナウシカはたとえ自分たちが旧世代の人類がデザインして作られた命だとしても、ここで必死に生きて、そして死んでいった人たち、また腐海の植物や虫たちすべての命に慈しみの心で向き合った結果、目の前の命を無価値のように扱う1000年前の人達に、生殺与奪の権限を握られ続けている事を許せずに、彼らの存在を残す墓所を破壊する。実は墓所自体も一つの生態装置として意思を継いでおり、それを殺した事にもナウシカは心を痛める。
 トルメキアの皇帝が死ぬ間際「破壊と慈悲の混沌だ」と称されるのはまさにナウシカの選択を的確に表している。善悪という価値観で判断する事が出来ない。もしかしたら旧世代の叡智を破壊したせいでその後人類は滅びに向かうかもしれない、これからもデザインされた世界で命を全うすべきだったのかもしれない。ただこの物語では「破壊と慈悲の混沌」の世界を選択した。そして未来の選択肢は等しく平等にその世界に生きる命に委ねられ、いずれにせよ命は続いていくのだろう。

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旧世界の支配者の依り代の墓所にとどめを刺すシーン

探究者としてのユパ様に注目する
 漫画版読んでいて一番注目したのは腐海一の剣豪ユパ・ミラルダである。世界中を巡りこの世界の病や悲惨な状況をなんとかできないかと探究し続けている。腐海の真実に一歩手前まで近づきながらも、ナウシカはその先にいる事に気づく。そういったことに気づいた結果ナウシカの師でありながら、ナウシカに未来をゆだねるように物語に関わり続け、最後は腐海から逃れたいがみあう難民たちの争いを身を挺して止めて命を絶つことになる。真実を探究しそれでいて謙虚に一つの命として対等に向き合い全うする、そして自身の意思を継ぐ者を導くのではなく託す。ユパ様のこそが探究者としてあるべき姿なのかもしれないとそう感じた。

改めて「運動論としての風の谷」を考える

 映画、漫画と改めて良く見た所、なんとなく住みよく美しい所として捉えていた「風の谷」のイメージが大きく変わってしまった。「都市集中型の未来に対するオルタナティブ」というのは本当に「風の谷」なのだろうか。また腐海自体が旧世代の人間が創り出した生体装置だとしたら、人間と自然と共に豊かに生きるというのはどういう事なのだろうか。と新たな問いが沢山生まれた。

遺し過ぎもよくないかも
 また旧世代の意思が未来のためを想って作った遺産を最終的には否定している。(旧世界の意思が生き続け導いていこうというエゴの否定)ここから得られる教訓としてはあまりにも素晴らしいものを未来に押しつけがましく遺そうとするのも良くはないのかもしれないという事だろうか。  
 ただ「有毒の大気、凶暴な太陽光、枯渇した大地、次々と生まれる新しい病気、おびただしい死取るべき選択肢は多くはなかった」と語られるように旧世界が本当にひっ迫していたこともあり、彼らはエゴイストではあったかもしれないが悪人かというと難しい所ではある。

風の谷世界の暮らし
 作中において風の谷以外にも暮らしの場は意外と存続しており、風の谷以外も割と個性のある暮らしをしているように思える。(旧世界の宇宙船を鉱山とした工房都市や森の中で虫や菌と暮らす人々など)そもそもナウシカ世界における暮らしの場というのは都市だの地域だの理想の暮らしだの関係なく生きれる所で生きる、生きる為になにかを虐げる、土地環境に寄り添って生きる、という選択の結果でしかないのではないだろうか。腐海から遠く離れた所に都市があり、森の中で生きる少数民族もいるが、風の谷は腐海のほとりながら風のおかげで瘴気に満ちていないという環境故に、とても珍しい生存域となっている。結果的に風の谷の住民は物語においても人と腐海の生態系の中間に立つ特異的な存在となっている。

風の谷は何を遺したか
 あらためて風の谷が独自に育んだものは何かと考えたら、すべてを慈しむ心の美しさ、立ち向かおうとする人の意思、そしてナウシカという「破壊と慈悲の混沌」の象徴が生まれた事かもしれない。そんな人と心を育む場はやはり大切なのかもしれない。ただその思想がもたらした選択が本当に大切かどうかも一考の余地があるかもしれない。
 あともう一つ特異的な立地から中間に立つ存在として腐海とも人間とも対話を試みる事が出来た事が大きい、腐海との共存を望む一方で生き延びた人と「銃かパンか」という外交をもって愛憎混じりながら谷に受け入れる事となる。多様性を受け入れる事、対話を通じて理解しあおうとすること、これは風の谷に遺された人の良心的な部分のようにも思えた。そして変化に対して一番柔軟だったのは風の谷の住民だったのかもしれない。

今回のまとめ

 「風の谷を創る」という運動論が「都市集中型の未来に対するオルタナティブ」を作るきっかけとなっていくのは、とても楽しそうなムーブメントだし今後も広がっていって欲しいと感じています。しかしながら取り組みが進んでいくうちに、ナウシカ世界における風の谷とは全く異なるものが出来ていくのではないだろうか。そんな風に改めて思った所でした。

 といった所で「風の谷を創る考」一区切りにします。理想郷の次は都市集中型の暗黒社会(ディストピア)について考えていきたいですね。たぶん続きます!

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