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占守島の戦い 【戦死した曾祖父を追う②】

私の曾祖父・牛谷うしたにいさおは「占守島の戦い」で戦死しました。
この投稿は、「占守島の戦い」について筆者なりにまとめたものです。

調べるに至った詳しい経緯は、前回の投稿をご参照ください。

今回は、占守島の戦いについて、特に牛谷功が関わる第1回目の軍使の場面を書いていきたいと思います。

そのため、「士魂部隊」は軽く触れ、「女子工員の避難」などは省略します。

詳細を知りたい方は、Wikipediaをご参照ください。

占守島の戦いについて

「占守島の戦い」は「日本」対「ソ連」の戦いで、1945年8月18日から21日まで行われた戦いです。

日付からわかる通り、日本で玉音放送が流れてから3日後の出来事です。

ソ連軍の上陸

「占守島の戦い」は、1945年8月18日午前2時頃、ソ連軍が島北東部に位置する竹田浜に上陸しようとしたところから始まります。

占守島地図 (相原秀起 著『一九四五 占守島の真実』より  p8-9)

しかし、樋口季一郎司令官の指示のもと、占守島沿岸では、玉音放送の後でも臨戦態勢でした。

第五方面軍司令官 樋口季一郎 (相原秀起 著『一九四五 占守島の真実』より  p69)

戦線のこう

日本とソ連との戦線は、四嶺山しれいさん付近でこう着することになります

四嶺山から竹田浜を望む (相原秀起 著『一九四五 占守島の真実』より  p95)

ここで、「戦車十一連隊(通称:士魂部隊)」の連隊長の池田いけだ末男すえお大佐が部下に言った有名な話があります。

われわれは大詔を報じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔ごうまの剣を振るうほかはない。そこで皆に敢えて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手を上げよ。

相原秀起 著『一九四五 占守島の真実』より  p106-107

つまり、「赤穂浪士のように、今恥を忍んでも将来敵をとることを望むか。それとも、白虎隊のように、我々の命をもって今戦うことを望むか」の二択せまられ、その場にいた全員が白虎隊となることを望みました。

そして、池田いけだ末男すえお大佐をはじめ、多くの人が戦死しました。

しかし、日本軍は犠牲を払いながらも、戦いは日本軍の優位に進みます。

停戦交渉

ソ連軍が18日午前2時に上陸してから、約6時間後の午後1時に、師団司令部の長島ながしまあつし大尉が停戦交渉の軍使に任命されました。

ここで同行したのが、同じく師団司令部の木下きのした少尉、成瀬なるせ曹長、鈴木すずき一等兵、護衛として般林はんばやし少尉の2個分隊が随行しました。

そして、ロシア語の通訳として牛谷うしたにいさおが同行しました。

長島大尉率いる軍使は旅団司令部を午後2時に出発しました。

道中、護衛隊員及び般林はんばやし少尉、牛谷うしたに通訳がソ連軍の砲撃を受けて戦死します。

何とか生き延びた長島大尉は捕虜としてソ連軍の司令部に行きました。

その後、軍使でのやり取りを2~3回繰り返し、1945年8月18日から始まった戦闘は8月21日をもって停戦します。

しかしそれは、「日本側の武装解除」という形で終わります。

「占守島の戦い」の意義

占守島の戦いによって、ソ連の日本侵攻は大幅に遅れ、その間に米軍の北海道進駐が完了したため、ソ連の侵攻を避ける事が出来たと考えられています。
また、ソ連は北海道を共産圏として支配する事を目標としており、占守島が占領された場合、ソ連の北海道進駐が可能となった可能性が高い為、占守島の守備隊がソ連による北海道分割統治を阻止したと考えられています。

Wikipedia「日本本土の戦い」より引用、一部改変

次回予告

私は占守島の戦いについての書籍を片っ端から買い集め、読みましたが、「牛谷うしたにいさお」についての文言は、それほど多くありません。

「軍使に通訳として随行し、戦死した。」

この程度です。

そのため私は、「牛谷うしたにいさお」について深く知るため、軍歴証明書をとることにしました。

軍歴証明書とは、満州事変から始まる太平洋戦争に従軍した軍人・軍属「軍歴」が書いてある文書です。軍歴は以下の通りです。

「氏名・官職・叙位叙勲・招集時期・出航した港・配属・任官・進級・従軍記録・賞罰・傷病と治癒・招集解除時期」など、軍隊に所属していたときの詳細な内容

出典:軍歴証明書の取り方を詳しく解説!

次回


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