骨髄バンクドナー経験(嫁目線)
旦那が骨髄バンクのドナーとなったことがあって。その経験を書いて見ようかと思った。もう10年以上前の話なので今とは違うかもしれない。そして私の記憶はまあまああやふやだ。ちゃんとしたことは骨髄バンクのホムペを見て欲しい。(そしていろいろもう時効と思って欲しい)一応、骨髄バンク登録者が増えてくれると嬉しいなという気持ち。
ちなみに骨髄バンクからのドナーはボランティア。完全無償。貰えるのは交通費のみです。入院手術代の支払いもありません。逆にドナー自身が加入している生命保険から給付金が貰えることもあります(ウチが加入しているのは対応してなかった(´;ω;`))
骨髄バンク登録からのドナー提供までの流れを紹介しているサイトです https://www.jmdp-donor-special.jp/elements/anim/sp_flow_donation/0.html
(ちなみに今は骨髄提供だけでなく、もっと負担の軽い末梢血幹細胞提供もあります。やはり詳しくはホムペへ。 https://www.jmdp.or.jp/ )
登録のきっかけは私の従妹。母がある日「あの子が骨髄ドナーになったから説明聞きに病院に付いてきてって言うんだけど、どしたらいい?」と言ってきた。従妹は両親が居ないので我が家で育った。後見人が私の母だったので母が親代わり。ドナーの同意のため母も病院に行かなくてはいけないと。従妹は同級生が19歳で白血病で死んでしまった時に、なにか出来ないかと骨髄バンクに登録してた。登録して1年くらいでドナー候補になったのだ。耳にしたことがある単語だが、いったいどのようなことをするのかどのようにしなくてはいけないのか、全く分からない。かといって、一応イイコトなので反対というのも変である。“一緒に行ってよく話を聞いてこい“としか母には言えなかった。「なんかね、鉛筆くらいの針を腰に刺して取るんだって。手術は全身麻酔で費用もかからないって。万が一が起きたら保障もあるって」とざっくり言われた。母本人もざっくりと理解しただけなんだろう。危険度は低いようなので、やっぱり反対する理由があまりないみたいなので、家族同意をしてきたようだ。タイミングよく従妹の大学が暇な時期に手術だった。術後、従妹は風邪っぽいだるっぽい感じが何日か続いたようだが基本元気だった。
それに触発された私たち夫婦はすぐに骨髄バンク登録をした。献血ルームで献血ついでに登録したような記憶(如何せん昔のことで)がある。登録すると何ヶ月かに1回骨髄バンクニュース(会報)が送られてくる。それらを始めは興味を持って読んでいたが、しばらく経つとJAFの冊子と同じ感覚でポイとその辺に置いてしまう存在となった。
登録して2年経った頃、いつもと違う色の封筒が届いた。ドナー候補となったのだ。宛名を見ると旦那宛て。ほっとしたようなガッカリしたような複雑な気持ち。中身を読んだ旦那は一言「俺はしたいけど、会社休めるかな」そう、手術はもともと3日〜4日入院だ。その前に確認やら同意やら健康診断やら自己血輸血のための採血(2回3回)があるのだ(術前に6日前後、手術3~4日、術後2~3日)。そんなに休むの聞いてないよ〜という感覚だった。いや、たぶん会報に書いてあったはず。「まずは会社に相談だな」
旦那は会社に相談した。会社の回答は「前例がないが、まあ、でも有給の範囲内でどうぞ」という感じ(なにげに融通が効く会社)。それならばと前向きな返事を出したら、しばらくしてコーディネーターさんから電話が来た。早速地元の大学病院で確認と同意だそうだ。2人して電話しながらソワソワしたのを覚えている。アドレナリン的なものが出ていたんだと思う。
地元の大学病院でコーディネーターさんと待ち合わせて診察室へ。そこで流れと手術の説明と旦那の身体のことを聞かれた。旦那としては術前1週間の禁煙が嫌だったようだが仕方がない(全身麻酔のため?)。それと「骨髄移植を受ける患者さんの方は移植に向けて無菌室に入り準備をします。命懸けの準備です。なので、途中でやっぱりやめたは無しでお願いします。相手が死んでしまいます」と言われたのが印象的だった。そう、こちらは会社だのタバコ吸えないだの気にしているが、相手は生きるか死ぬかなのだ。相手はこれに全てを賭けているのだ。私はそこの自覚が足りなかったようだ。旦那本人はどう感じたかは分からないが。旦那自身の身体について聞かれた時にうっかり私が発言してしまった。“たまに胃潰瘍みたいなの起こすんですけど“と言ったら全員の顔色が変わった。「そういった懸念があるのなら出来ないかもしれませんね」と医師が言う。“え?だめなの?その程度で??“と私は思ったが、どうやらそのレベルもダメらしい。コーディネーターさんは慌てて「じゃあまた、その事をかかりつけ医さんに相談して後日またここに・・・」と言った。“え?またくんの?別にいいのに、進めてくれても“と思ったけど、後の祭りらしい。その日はとりあえず解散。その帰り、車の中で旦那にしこたま怒られた。有給無駄にしたしね。
その後無事に同意をして、健康診断をして問題なく次は自己血輸血のための採血へ。今回は相手が関東60代男性ということで、骨髄を取れる量の最大量取るので自己血採血は3回。バンクから相手の情報は地域・年代・性別を教えて貰える。それと2回まで手紙のやり取りができるという。術後とその一年後。手紙は強制では無いとのこと。そういえば従妹はちゃんとやり取りしてその手紙を大事にしていた。従妹の相手は確か10歳未満の男の子だった。可愛らしい手紙だったのを覚えてる。残念なことに今回旦那には可愛らしい手紙は期待できないようだ。それと、従妹の時は相手が子供だったので骨髄を取る量が少なく自己血採血も1回(無しだったか?)で針を刺すのも通常の4箇所ではなく2箇所。従妹から聞いてた話と今回はいろいろ違っていた。有給をとりながら間を空けて2回目の自己血の採血が終わった。自己血をとるのは骨髄を取った直後に自己血輸血をするのだ。せめてこれだけでも身体に返そうという感じみたい。骨髄が再生復活するまでこれで凌ぐのだ。
さて、3回目の採血というところで、電話がコーディネーターさんから来た。「大変です。自己血の入った冷蔵庫が大学病院のミスで電源が抜けてたそうで、自己血がダメになりました」そんな事ある?!?!という感じです。旦那は「ふぅん」という感じで相変わらず飄々としてましたが、私としては“それは大丈夫なの???“という焦りでいっぱい。“じゃあ自己血輸血できないですよね?少し手術を延ばしてまた取ればいいんじゃかいですか?“と私が聞いたら「それが相手の患者さんは手術の日に合わせて準備してるので延ばせません。あと1回の自己血だけで凌いでいただくしか…」ええ?そんな事ある?!?!2回目だよ。「それは大丈夫なんですか?」「つぎの採血の時に先生から説明がありますので…」私の目の前が真っ暗になった。旦那は飄々としている。
3回目の採血の時、やたら保障の話をされた。そんな話はされたかないわ。先生は「まあ、大丈夫でしょう」と真顔。せめて明るく言ってくれ。仕方がないのはよく分かってる。ここで止めようもないのだ。腹を括るしかない。でも、括るはずの旦那は相変わらず飄々としている。「ちょっと、あなたは心配じゃないの?」「心配しても仕方ないだろ、なんとかなるさ」「そりゃそうだけど…」
手術当日、病室は病院で1番いい部屋。費用は相手の患者さん持ちだ。応接室にシャワーにキッチン、和室もあった。2泊3日なのでどれも使わない。そして広すぎて落ち着かない。手術は何時間だったか。でも待ってられる時間だった(3時間くらい?)手術が終わり旦那が病室にやってきた。看護師さんが「もう麻酔から目が覚める頃ですよ」と言っていた。確かに旦那はうーんうーんと唸っていた。腰から取ったのでうつ伏せだ。旦那が何か言った。「なに?何言ったの?」「嘘つきぃぃー、痛いじゃないか」どうやら腰が痛いらしい。誰が痛くないと言ったんだろう?従妹か?コーディネーターさんか?先生か?その日は旦那がちゃんと覚醒したのを見届けてから家に帰った。
退院してしばらくしたら手紙が届いた。相手さんからだ。ハガキサイズの紙に非常に達筆に書いてあった。旦那は「読めない」とポイッとしてしまった。私が頑張って解読して伝えた。「ふぅん」とやはり飄々としていた。私が“返事書かないの?書かないと2通目来ないよ“と聞くと「やだ。めんどくさい」という返事。旦那は極度の恥ずかしがりというか人見知りというか。代わりに書くといっても、やめろという。まあ、本人がそう言うなら仕方ない。「この人もこれで孫と仲良く過ごせるだろう」旦那のこの言葉が印象的だったが、孫なんて手紙には書いてない。
実は退院後、やはりかなりの期間だるさが取れなかったようだ。そりゃ、そうだ。自己血輸血が少ないんだから。体力の戻りもかなり悪かったようでだるさもなかなか取れなかった。比較対象が従妹では差がありすぎてなんとも。これが普通なのかどうなのか。1週間くらい寝込み、重いものは1ヶ月半くらい持てなかった。重いものを持つ仕事なのに。会社には術後はしばらく重いものは持てないくらいに伝えていたが、これ程長くなるとは。
3月頃の手術だったと覚えている。実はその後、いろいろ大変だった。5月から娘が不登校となり、9月には旦那が鬱になった。会社からは「大病とか手術とかすると性格とか変わるっていうし…」と嫌味を言われた。“いやいやいや、会社の対応が悪くて鬱になったんじゃー!“と静かに反抗しながら会社との休職対応に大変だった。まあ、会社が全ての原因ではなく、もちろん娘の不登校を気に病んでも原因の一つだろう。もしかしたら手術もそうかもしれない。鬱なんて原因ひとつじゃないし。3ヶ月休職して復帰してくれた。娘に旦那にメンタルケアがちゃんと出来たのかいまだによく分からない。その翌年には娘もちゃんと学校に行けるようになった。(後日談、成人した娘に“不登校の頃辛かった?“と聞いたら「なんで?学校行かなくて楽だった」と言われてモヤモヤした)娘が学校に行けるようになって安心したら私がストレスから胆石発症、手術した。まあ、ストレスフルだったよね、そりゃ。
2年後、また色の違う封筒が届いた。
そういえば従妹が言っていた「2年後くらいにまた来るかもしれない」「なんで?」「再発だよ」