戦争花嫁に会って
電車に一本乗り遅れてねー。
その後に駅から広島の方向で閃光が見え、次いでものすごい音が聞こえたの。
呉から広島方角が見える山と山の間から雲のようなものが立ち上るのが見えたのよね。
それがたちまちキノコのような形になったの。
1945年8月6日午前8時16分。
当時呉に住んでいた女性の話だ。友達と広島に映画を見に行く予定だったそうだ。
たまたま乗り遅れた電車。そこが運命の分かれ道となる。
本当に人生というのは不思議だ。
もしあの時電車に間に合っていたら、私は今ここにいなかったのよね。
とても貴重な体験をさせていただきました。
かつて650人いた戦争花嫁たちも高齢化が進み、その数は少なくなっています。
しかし、その子供たちや孫たち、ひ孫たちへと血は受け継がれています。
敵国の人々を受け入れたオーストラリア。
その中で差別やいじめを経験しながら育った人たちがいます。
二代目は自分たちが日本人の子孫であることを隠したり、嫌がったりすることが多かった世代です。
日本語を学ぶ機会も少なく、学びたい意欲も低かったようです。
日本人の母を持つことや日本人の血が流れていることが原因でいじめに遭うこともあり、母親たちもオーストラリア人として生きていくために日本語を使わなかったのです。
2010年頃でも、僕たちが引っ越した田舎の方で白人が多いエリアでは、息子たちはいじめを経験しました。
それを考えると、当時はさらに大変だっただろうと思います。本当にいろんなことを考えさせられました。
自分たちは戦争花嫁の立場や境遇とは程遠い存在ですが、配偶者の地で生きていく苦労や気持ちは少なからず共感できる部分があると思います。
如何にして文化を継承していくか。自分たちの日本人であること、継承しているものの意味は何なのか。
様々なミックスの顔を見て本当に興味深く感じました。
日本人の色が濃い人、西洋系の色が強い人、ちょうど半分くらいの混ざり具合の人もいます。
戦争花嫁当事者たち、母親世代は友達に会いたいという強い願望があったからグループとして成立していたと思いますが、その子供たちや孫たちになるとどうしても繋がりが薄くなるかもしれません。
そんな中で同じような境遇を経験した人たちが再びつながって何かを共有できるのは素晴らしいことです。
どの国の人だとかというのではなく、人間として尊敬し合い、惹かれ合うのは自然なことです。
違いが魅力となることもあります。
同じような価値観を共有できる仲間がいるというのはとても心強く、楽しいことだと思いました。
今回は95歳の女性を送迎させていただき、車内でたくさんのお話を伺うことができました。
そのライフストーリーに心が動かされ、これは次の世代にとって勇気や誇りになると感じました。
僕は幸運なことに、かなり大きくなるまで父方も母方も祖父母が健在だったため、たくさんの時間を一緒に過ごすことができました。
本当に貴重な経験だったと心から思っています。
学んだことも多く、いまだに祖父母の言葉が僕の中で生き続けています。
そういう経験がない人も多い中で、僕は本当にラッキーだったと感じています。
自分もいずれは歳をとってそうなる。
どう生きていくかを考えさせられた週末でした。
そして日系ということで繋がりを持った人たちがどこかでつながって前向きな関係を築いていけるように動いていけば、面白いことが起こるような気がしました。