一人で肉を喰らうこと。
先日、人生初めての一人焼肉へ行った。
私は友達とワチャワチャするのも好きだが、一人でゆっくりと何かをするのも好きだ。結構一人で何でもできる方だと思う。
一人ラーメン(普通か)、一人カラオケ、一人旅、一人縁結び神社などいろいろな経験や体験をしてきた。 ただ、一人焼肉はしたことがなかった。
今日はその一人焼肉へ行った感想を書く。
私が行ったのは雑誌に載っていた「焼き肉ライク」という一人焼肉専門店である。
中はカウンターがメインでそれぞれが仕切られている。牛丼チェーンにパーテーションがついたようなイメージだ。テーブル席も一応はあり、複数人でも楽しめる。
そして、一人一人に網が用意されており、一人で自由に肉を焼くことができる。注文は目の前のタッチパネル、備品も引き出しに入っているので店員さんをいちいち呼ぶ必要もない。完全にお一人用に仕立て上げられている。
食レポのような高度なことはグルメな方のブログを見ていただければいいと思う。
私がここで考えたいのは「一人焼肉」という行為の社会学的考察である。
焼肉は一般的に複数人で楽しむもの、少なくとも2人で楽しむもの、という認識があろう。
焼肉が他の料理と決定的に違うのは「焼く」という調理行為が目の前で行われるという点である。
これが「一人焼肉」を難しくさせている要因だと考える。それらをザッと挙げてみる。
①焼肉は全体の時間が長い
おそらく焼肉へ行けば2時間くらいは居座ることになるだろう。焼肉食べ放題チェーンの時間設定もこのような感じだ。
これももちろん肉を焼く時間が含まれているからだ。ハンバーガーとは違って店に入ってすぐにかぶりつくことはできない。
また、焼肉は「肉それ自体」を楽しむだけではなく、肉を焼く時間を利用して相手や仲間との「会話を楽しむ」という要素が強い。
一方、この焼肉ライクは15分~30分で客が食べ終わって出ていく。もちろん肉は焼いているが、会話をすることや、「誰がどれを食べるか?」「何を焼いてあげるべきか?」という焼肉にある気遣いが完全に排除されている。よって短時間で焼肉を楽しむことができる。
普通の焼肉を食べている時も、実際に箸でつまんで、咀嚼をしている時間というのはこれくらいの時間なのかもしれない。
②物理的な罪悪感
焼肉屋はどこもテーブルで4人~6人掛けになっているところが普通であろう。
これを一人で行って一人で大きなテーブルを独占して、一人で網を使うのはやはり気がはばかられる。電車や図書館で座席に荷物を置いてパーソナルスペースを確保する輩と同じ感じになってしまう。
そうなると「焼肉が食べたい」と思っても、まず誰かを捕まえねばならない。運よく暇な相手がいればよいが、急に思い立って焼肉が食べたくなっても誰かを誘うというハードルが焼肉から遠ざけてしまう。
焼肉を一人で食べられるという勇気があっても、このような物理的なハードルから一人焼肉は難しい。
そんな中で出てきたこの「一人焼肉」はかなり画期的なアイディアであろう。
社交ダンスやキャッチボールと違って、「肉を焼く」「肉を食べる」という行為は十分に一人でできる行為である。また、一人でもサクッと肉を食べたいというニーズはかねてからあった。
牛丼やラーメンは「脂っこくて、がっつく食べ物」であり男飯であるというジェンダー的イメージがあるが、焼肉もそういった類の食べ物である。
このような偏見をかいくぐるために、例えば、ラーメンチェーンの「一蘭」では席と席の間に仕切りを設けている。これによりプライバシーの確保だけでなく、店員の顔もが見えなくなることで「作り手の印象によって味が左右されないようになっている」のだそうだ。
実際、私が着席した席の両隣の方はどちらも女性であった。パーテーションで仕切られているライクでは、焼肉を食べる姿が他人から見えないようになっている。女性にも「一人で焼肉を楽しみたい」というニーズはあったということだ。
他の席にも女性の方はいらっしゃった。感覚的には全体の3割は女性客である。オッサンしかいないと思っていた私にはビックリだった。
ただ、「一人焼肉」が、男性にすら、あまり行われてこなかったのは、先述の時間的・物理的ハードルによるものであったと考えられる。「一人焼肉」が叶わなかった人達はステーキの店へ行くか家で焼肉をして楽しむしかなかっただろう。
一人で行くと何よりも気を遣わなくてよく、肉に向き合うことができる。誰かとワイワイ行くと、食べ放題に行くと、実際は会話や元を取ることに気持ちがいってしまって、ゆっくりと味わって食べられないことが多い。
個人的には「ありそうで無かったモノ」を生み出すのが最高のマーケティングであると考えているが、「焼肉ライク」はそのありそうでなかった所をついてきた。
「一人焼肉専門店」は焼肉という行為を定義し直し、「焼肉は一人で食べてもいいのだよ」という理由を我々に与えてくれたのだ。
そう、人は何をするにも理由が欲しい生き物だからである。
【参考】
南後由和『ひとり空間の都市論』2018 筑摩書房