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「楽しい」だけ?


コロナ渦の生活、マスクをつける生活になってからもう1年くらいが経過した。夏には収束するだろう、すぐに収束するだろうという楽観的な考えは早々に打ち砕かれた。そして我々の生活の多くを変えた。

関西のどこかで生きている私は、一年前くらいまでは、よく集まりや飲み会に行っていた。梅田、難波、天王寺、福島、塚本といった繫華街に2週に一回くらいは行っていた。

お酒は弱く、ほとんど飲めないが、友人と話したり、カラオケやダーツをするのは楽しかった。高校時代の友人や大学時代の友人、地元やバイト仲間など複数のコミュニティに誘ってもらっていた。

しかし、そういった飲み会や繫華街へ繰り出して遊ぶといったイベントは1年前くらいからぱったりと無くなってしまった。そして、どこか「繫華街」で遊ぶことが罪であるかのように思えてきた。飲み会でしか顔を合わさないような人もいたので、しばらく会っていない人も増えた。私自身としても本当に生活は一変したのだ。


ただ、これはこれで良いのではないかと思う。


確かに繫華街で飲み歩き、騒ぐのは楽しかったが、それは単に表面的な「楽しい」ではなかったのかと思う。次の日にアルバイトや大学がある中で終電ギリギリまで飲んだり、得意でもないお酒をさも得意げに飲んでみたり、1回3000~5000円という大学生にとっては決して安くないお金を払ったりしたが、これらはただ「楽しい」だけであって「満足」や「悦び」といったものとは違っていた。

その場では「楽しい」と思えても、家に帰ってくればヘロヘロでお金もなく、翌日は睡眠不足という状態にあることが、本当の楽しみであるとは考えにくい。

つまり、なんとなくの雰囲気や楽しみにお金や時間を使っていたのだ。確かに学生時代に参加した数々の飲み会は「なんとなく楽しかった」という記憶はあるが、具体的に感動したこと、勉強になったことがあるか、心からの満足がもたらされたかと言えば、それは皆無に等しい。

コロナ渦になってからは大勢で出かける時間が減り、一人の落ち着いた時間が増えた。私は1年前までの行動を猛省した。コロナ渦は先述の惰性に気づかせてくれたという事実もあるのだ。

ダラダラと飲み歩く時間や安物のカクテルに払うお金があれば自己投資に充てたり、親しい人や大切な人との時間に充てる方が心から満たされる。つまらない下ネタを言ったり、つまらない愚痴を聞くくらいなら、思うことや考えに議論を巡らせる方がよっぽど有意義だ。

特に私は知的欲求が強い方なので、そういった生活スタイルがよく合う。


最近では繫華街を無駄に練り歩いてお金と時間を無駄に使うことはなくなった。そのお金は自己研鑽とプライベートの充実に回せるようになった。

確かに、たまにはなかなか会えない人と会う機会としての「飲み会」は有用であろう。ただ、いつものメンバーといつものように同じように飲んでいても、単に「楽しい」で終わってしまう。

同じ時間やお金を使うならば、例えば何か勉強になるような、心からの満足できる使い方をする方が真の充実につながるのではないか。


「楽しい」だけで満足していないか?

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