27歳になったが
※8月15日分
タイトルのとおり、つい先日27歳になった。世間ではアラサーと呼ばれるくくりに入るみたいだ。
周りの人は「若そうでけっこう歳いってるな」という旨のコメントをしてくれるが、自分でも本当にそう思う。27歳になったという実感があまり湧かない。アラサーになっているという実感もあまり無い。
しかし、これはでも多くの人に当てはまる感覚なのではないだろうか。「時間」とは我々が勝手に作り出した尺度であり、その決められた流れに沿って年齢やその他諸々のことが勝手に決まる。時間はどんどんと流れていく。「Time waits for no one.」という言葉があるがまさにそうだ。
だが、個体としての我々は物心がついた時から、いや正確に言えば生誕した時から、同一の連続した意識の元で毎日を送っている。哲学ではその連続性さえも疑うことがあるが、今はそれには触れないでおく。
となると、実感が湧かないとうのは至極当たり前の感覚であろう。歳をとるごとに例えば誕生日プレゼントや誕生日ケーキといった自分の誕生日に関するイベントが減っていく場合が多いし、10代、20代では入学や卒業、就職なとでステージが目まぐるしく変わるが、一定の年齢を超えるとそういったステージの変化も起きにくくなる。そういったことで歳をとることへの関心が薄れていくのかもしれない。
個人的な話になるが、27歳の自分を俯瞰で見ると、「こんなもんなのか」というのがホンネである。
毎日、なんとなくでサラリーマンとしてつまらない仕事をこなして、アフターファイブや週末を楽しみにする。月曜日からはまた憂鬱な気持ちで金曜日にやっていたことの続きを行う。特にそれで誰が喜ぶわけでもない仕事をして、それなりの給料をもらう。こんなもんのなのか。
高校生の時、通学路にいつも白いBMWのセダンが停まっていて、自分も大人になったら白いBMWのセダンに乗りたいと強く思っていた。だが、現実はどうだろう。BMWを購入・維持するような給料では到底ない。車の購入費用は年収の半分が良いと言われるが、最も売れ筋のモデルでも1200万円くらいの年収が必要だ。
もちろん1000万円を超える年収を得ている人は給与所得者のうち約5%程度なので、そう簡単なハードルではない。ただ、ガックリするのはそこではなくて、憧れた生活が実現されていいないという点にあるのだと思う。人生なんてこんなもんなのだろうか。
どんな話をしても結局は金の話になってしまう自分には失望するが、理想の生活を手に入れていないというのは紛れもない事実で、それらを資本主義社会において手に入れるには大抵の場合は金が必要になるというのは自然な流れだ。
今年1月にはファイテンナンシャルプランナーの二級を取得したが、特に生活が変わることは無かった。お金持ちになれるわけでも、副収入が入るわけでも無い。適当な資格を取ってもこんなもんなのだ。
27歳の目標というか抱負はこのような輪廻から解脱することと言えるかも知れない。特にここ近年は同じような不満ばかりを散らしているような気がするので、これは喫緊の課題である。
どのようにすればもっと満足できるか、モヤモヤを感じないか、解脱できるのか、今はよくわからない。けど、27歳の今年も頑張ろうとは思う。