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It's never too late to start.
私はケンタッキーのフライドチキンが好きだ。コンビニやスーパーでもチキンは買えるが、あの味はケンタッキーにしか出せないと思う。
日本ではクリスマスやお正月などに食べる、お祝いやパーティー向けの食べ物というイメージが強い。高級品というイメージもあるかもしれない。
同じファストフードチェーンのマクドナルドなどとは違った路線のケンタッキー・フライド・チキンであるが、今日はその創業者の秘密に迫りたいと思う。
以前、私がたまたま購入したのはこの藤本隆一著の『カーネル・サンダース』という文庫本である。副題には『65歳から世界的企業を興した伝説の男』とある。
カーネル・サンダースは多くの人が知っている通り、店の前に置かれている眼鏡を掛けた白いスーツのおじさんの人形や、パッケージに描かれている顔である。彼こそがケンタッキー・フライド・チキンの創業者だ。
しかし、彼の人生は決して楽なものではなかった。順風満帆に人生が運び、美味しいフライドチキンを生み出して、ぼろ儲けしたわけでは全くない。
カーネル・ハーランド・サンダースは1890年にヘンリービルという町に生まれた。「カーネル」という名前は本名ではなく、ケンタッキーが彼の功績を称えて与えた名誉称号のことである。
彼は10歳で農仕事を始めてから、多くの仕事を転々とした。軍隊、サザン鉄道、ノーフォークアンドウエスタン鉄道、イリノイセントラル鉄道、弁護士、ペンシルバニア鉄道、保険外交員、フェリーボートの経営、商工会議所の秘書、アセリンガスのランプの製造販売、ミシュランのタイヤのセールスマンなどだ。
そして、セールスマンをした後に、荒れたケンタッキー州でガソリンスタンド経営を始めた。苦労もあったが、何とか乗り越え、そこに食事ができる場所を併設した。これが「サンダース・カフェ」の始まりである。
そこで、特に人気があったのがハーブとスパイスで味付けしたフライドチキンだった。これに改良が加わってゆき、11種類のハーブとスパイスが用いられたイレブンスパイスという味付け法が確立された。
ただ、一つ問題があった。それは従来の調理法では調理に30分以上かかってしまうということだった。これではお客さんは待っていられない。
そこで登場したのが当時の新製品である圧力鍋だった。これを使えば秘伝のハーブとスパイスを使ったフライドチキンがわずか7分で提供できるようになったのである。
65歳になったとき、道路事情の変化からカフェの売上げが激減してしまった。カーネルは引退を考えたが、もらえる年金がわずかしかないことを知り、自分にまだできることを探したのであった。
それが今となっては当たり前のフランチャイズシステムだった。これならばレシピを伝えれば、カーネル自身が調理をしなくとも、一定のインセンティブが入ってくる。
これが世界的企業、ケンタッキー・フライド・チキンの誕生だった。
この本を読むと、実に多くの災難、事件、事故、不幸がカーネルやその周辺に起こっていることがわかる。それでもカーネルは美味しいフライドチキン、来てくれるお客さんのために再起し、様々な試行錯誤を重ねたのである。
また、ケンタッキー・フライド・チキンは企業としても優れていた。フランチャイズシステムは同じ味や品質が保てるようになされていたし、なによりカーネルとフランチャイジー達との信頼で成り立っていたことがわかる。
チキン一つにも壮大なドラマがある。カーネルのような熱い姿勢は見習いたい。
【参考】
藤本隆一『カーネルサンダース 65歳から世界的企業を興した伝説の男』2016 文芸社文庫
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