嫌悪すらエネルギーに
事実として我々は万人に好かれることはできない。どんな性格でも、どんな容姿でも、その人を嫌う人やアンチは必ずいる。
M1で優勝した漫才コンビ、ジャニーズの有名グループのメンバーや、48系のアイドルでさえ、必ず嫌いな人やアンチはいるのだ。
まして有名人でも何でもないパンピーの我々には必ず自分のことを嫌いな人がいる。
だが私はこの事実(自分のことを嫌いな人がいるという)を自分に活かしてきた。自分のパワーに変えてきた。むしろ、嫌われることが自分の活力になってきた部分もあるのかもしれない、と最近ふと考えた。
私だって嫌われたいわけではない。できることならば八方美人で万人に好かれたい。誰とも仲良くしたい。だがそれは不可能だ。
明るく振る舞うと「うるさい」と思ってくる人がおり、静かに振る舞えば「消極的」だと決めつけてかかってくるやつがいる。どう振る舞ったとしても必ず嫌われるのだ。必ずアンチや天邪鬼がいる。
ふと、過去の自分を振り返ってみると、「嫌われている」「苦手だと思われている」という事実・状況をいつもバネにしてきたように思える。
例えば、私はある人に嫌われた(もしくは自分のことを嫌っていそうな感じを察知した)すると、その人以外の人(あるいはその人の近い周りの人)に対して、今まで以上に良く接するように務める。今まで以上に優しく接する、今まで以上に面白い話をするなどする。
そして私のことを嫌った人に「私を嫌ったこと」を後悔させる。これが私なりのリベンジというか抵抗である。「お前はこんなにも良い人物(私)を嫌ったのだぞ?どうだ後悔しているだろう?」という遊びを私は楽しむ。
決して、私を嫌った人に対して嫌がらせをしたり、陰で悪口を言ったりすることはない。そんなことをすると他の人にも嫌われてしまう。あくまでそれ以上に周りの人に良く、楽しく、愛想良く振る舞うのだ。
「私を嫌うのは結構。だがアナタは私と仲良くすれば享受できたはずの喜びやおもしろみを逃したのだぞ。それは非常にもったいないなぁ」というスタンスでいるのである。そうすると、嫌われるだけで終わるのではなく、もっと上質な人間に、もっとおもしろい人間に、もっとカッコいい人間になろうという気持ちに強く火がつく。
思い返せば、高校生くらいも時から私は誰かに嫌われた時はこのように振る舞ってきたように思える。「嫌われた」という事実が私を逆に高めてきたことも多くあったと感じる。「何くそ!」「嫌ったことを後悔させてやる」という気持ちをいつもバネに変えてきたと思う。
予備校の日本史先生に「間違えた問題には『ありがとう』って言うんやで」という人がいたが、同じく私は私を嫌う人に対して「ありがとう」と感じる。嫌われた分、もっと頑張ろうと思えるからだ。私に向けられる嫌悪の気持ちは私のエネルギーに変わる。
今回はこんな記事を書いたが、今現在誰かに嫌われたり、トラブルがあるということでは全くない。単になんとなく考えを巡らせていたときに思いついただけだ。だが嫌われずに生きることはこれからも不可能だ。
いつも私の記事を見てくれている人も、私の記事がつまらなかったり、内容に腹が立ったら、私をどうぞ嫌って欲しい。「嫌いだ」とコメントして欲しい。そうすると私はさらにエネルギッシュに精進していけるのである。