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裏返ったスマホと「葛藤」

私が大学生くらいのころ、友人が次のようなツイートを投稿していたのを今でも覚えている。

飯を食うときにスマホをテーブルに置くなコラァァァ!!!

という感じのツイートだったと記憶している。彼は直接相手にそう言ったのかどうかわからないが、そうツイートせざるを得ないくらい不快だったということだろう。

スマホが出始めた最初の頃は、まだ食事中のテーブルに出てこれるほどには市民権を得ていなかったと思う。スマホと言えどもあくまで携帯電話。そういう認識が最初の頃はあった。

それがだんだんとスマホに様々な機能が付いて、社会や世間のありようも変わってくると、スマホが、それはフック船長の左腕のように、さも身体の一部であるかのようにみなされるようになった。スマホは単なる電話機を超え、日常のどんな場面にも見られるようになった。

それに伴って、スマホが食事中のテーブルにも現れるようになった。先述の友人のツイートはこの現象がみられるようになり始めたくらいのものだったと思う。私の周りでも食事中のテーブルにスマホが現れ出した。

そして、不思議なことに誰しもが判で押したように同じ行動をとるようになった。飲食店に並ぶことがあればスマホを見て、店に入って注文を済ますと食べ物が来るまではスマホを見る。食べ物が来たらスマホをカバンやポケットには入れずテーブル上に置いておいて、そして食事が済んだ人からまたスマホを見る。


だいたいはこのような景色がどこのコミュニティでも見られる。私も食事中のテーブルに置かれるスマホを見るたびにウンザリするが、とりわけ気になるのが、そのスマホが裏返しに置かれている場合があることだ。

スマホを裏返しにすると当たり前であるがポップアップや画面は見えなくなる。そうするとスマホに気を取られる必要が無くなる。チカチカと点滅するスマホに注意を払わなくて済む。また、通知が来ても自分以外の人に画面を見られずに済むというメリットも存在する。

いや、そうだとするならそもそもスマホをテーブル上に鎮座させなければいいのではないか。そう思う。だが、これには単に「スマホ依存」だからという理由以外にも深い理由があるように思われる。

LINEを始めとするSNSサービスの普及によって我々は常時接続に世界に縛られるようになった。それについては、土井隆義『つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える』からの引用もしながら考えたい。

LINEのようなスマホのアプリでは、ごく簡単な操作で自分のメッセージをただちに相手へ届けられ、しかも相手がそれを読んだかどうかも即座に確認することができます。そのため、「三〇分以内に」などと悠長なことはいっていられないほど同期性が増し、音声通話とほぼ同じリアルタイムでのコミュニケーションが、しかし音声通話とは違って時間と場所をまったく気にせずに繰り広げられるようになりました。(P3)
(略)多くの子どもたちにとって、ネットを介したコミュニケーションの主たる目的は、何か特定の用件を相手に伝えることにではなく、互いに触れあうことにあるといえます。コミュニケーションそれ自体が目的なのです。だから、即座に反応を示さないことは、いわばタッチしてきた相手の手を振り払うような行為とみなされてしまうのです。ケータイからスマホへと主流が移行するにつれ、常時接続へのプレッシャーが強まっていくのもそのためです。(P15)
 先ほども触れたように、LINEのようなアプリには、そのサービス機能の一つに「既読表示」があるため、四六時中メッセージをし続ける若者や子どもたちが目立つようになっています。その結果、「LINE疲れ」と呼ばれる状況に追い込まれる者も増えています。それでも彼らがけっしてスマホを手放そうとしないのは、おそらくこのプレッシャーをひしひしと感じているからなのでしょう。(P15-16)

土井氏はこのようにLINEによる常時接続が子供や若者がスマホを手放さない大きな理由だとしている。「すぐに返信をしないと」「無視できない」等という、むしろ相手を思いやる気持ちから多くの人が必死に、こまめにスマホをチェックして返信やSNSの閲覧を行うのである。

だが、実際には現実世界を生きている以上、現実世界での人とのやり取りが当然ある。誰かと一緒に食事をする際には、テーブルの上にスマホを出しておくことはマナー違反であるという自覚や、「スマホを気にせずに食事をしたい」という願望ももちろんあるだろう。

それでも、スマホを通じたバーチャルなやり取りを今日の人は断ち切ることができない。余りにも密なコミュニケーションがそこにはあるため、バーチャルであるという理由だけでは、そのスマホを通じてコミュニケーションしている人達をないがしろにできないのだ。そんなときに、スマホをそっと裏返す。

つまり、「裏返しに置かれたスマホ」は、バーチャルなつながりと現実との間での葛藤が可視化されたモノに他ならないのだ。それは切りたくても切り離させない「つながり」を刹那的にうまくやり過ごす折衝策でもあるのだ。

こちらから見ると「なんだ、テーブルにスマホなんて出して」と思ってしまう。「裏返すなら出す意味もないだろ」とも思ってしまう。だが、その行為には外野から見る以上のプレッシャーやつながりの呪縛が襲いかかっているのではないだろうか。

スマホを視覚の外に置くことができないくらい、強固なつながりがスマホを通して展開されているのではないか。私は裏返しにされたスマホを見るたびにそう感じる。そして同時に、そういったつながりや常時接続はいつか当人たちを幸せに導くのだろうかとも疑問に思う。

かつて、「つながり」は魅力であったが、今はもはや「つながり」という軛に縛られているのではないかと思う。


【参考】

土井隆義『つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える』(2014)岩波ブックレット



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