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高校野球にみる創り上げられる「感動」
今年も夏の高校野球の季節がやってくる。全国の予選を勝ち抜いた球児たちが甲子園での優勝を目指し、全力でプレーする姿には感動する人も多いだろう。
だが、その「感動」は単に球児のプレーによってのみ生み出されるものではないことには気づいている人もいるだろう。そう、高校野球は徹底して統率され、抑圧され、さらに苦しい環境が生み出す。ある意味では作り上げられた「感動」なのである。
これは昔から議論され、問題視されていることである。なぜ多くの人が高校野球を観戦し、高校球児に感動するのか。それは、無意識化ではあるものの、高校球児たちが苦しみ、涙を流しながら、プレーする姿を多くの人が好み、求めるからである。
もちろん、3年間という限られた時間の中で、優勝や甲子園を目指し、若者が全力でプレーをする姿は誰もが応援したくなる。さらに、プロ野球などとは違って、負けたら終わりという試合形式では緊張感もあり、観ている側もハラハラするという点は否めない。ただ、それ以上に観戦する人が求めるのは、「苦しむ高校球児」の姿ではないだろうか。
7月、8月という猛暑の中、日焼けして黒くなった高校球児たちは汗や涙を流しながら、泥だらけになってプレーをする。もちろん全力でプレーしているということもあるが、猛暑での試合や連日の連戦では体力の消耗も激しく、涼しい顔をしてプレーをし続けることは困難である。だが、観戦する人の多くはそれを「美徳」だろ定義し、そこに「感動」を見出す。暑さや疲労によって歪む球児の顔を、全力でプレーする姿の内に取り込んで理解し、それこそが「カッコよさ」あるかのように理解しているふしがあるのではないだろうか。
例えば、高校球児が涼しい季節に、直射日光の無いドームで、白い肌で、プロ野球のような形式で試合をしていたらどうだろうか。それなら応援する気持ちが薄れるという人も少なくないのではないか。例え球児が全力疾走でプレーをしていたとしても、砂一つ付かないプレーをしていたら、それでも応援するだろうか。
ここに違和感を感じたとしたら、それはまさに高校球児を応援しているのではない。「苦しむ姿」や「汚れた姿」を美徳だとみなし、高校野球を「一種のエンターテイメント」として捉えていると言えるだろう。そして、それらの姿を外野から観戦し、感動を見出したり、もしくは感動する自分に酔いしれることこそが高校野球を観戦し、語る目的と化しているのではないだろうか。
高校球児を否定することも、それを観戦する人を否定するわけでもない。だが、実際に高校野球をやっていた身としても、そういった高校野球のエンタメ化があるという事実は否めない。もっと苦しそうに、もっと全力で、もっと汚く、という姿が高校野球には暗に求められる。そして、それらに勝手に「美徳」や「感動」を見出される。
そういった傾向が日本の高校野球にはあるのではないかと感じる。プレーはプレーであり、全力は全力である。それらを「苦しさ」や「抑圧」と絡めて勝手に理解してはならない。あくまで学生の部活動であり、あくまでスポーツだということを認識した上で観戦したいものである。
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